'97夏合宿 笠井・N西パーティー

1997 NorthAlps
期日1997年8月10日(日)~17日(日)
形式幕営・縦走 7泊8日 予備日4日 男のみ
山域薬師岳・鷲羽岳・三俣蓮華岳・双六岳・槍ケ岳(長野県大町市)/穂高連峰(長野県南 安曇郡安曇町)/水晶岳・祖父岳 (富山県上新川郡大山町)(岐阜県吉城郡 上宝村)
メンバー
L)笠井 崇文(3年生・男・理学部物理学科)
目付)N西(3年生・男・生物生産学部)
SL)O田(2年生・男・理学部地球惑星システム学科)
気象)M代(2年生・男・経済学部経済学科)
食当)H田(1年生・男・総合科学部総合科学科)
装備)Y川(1年生・男・総合科学部総合科学科)


1日目
折立キャンプ場-4:00→太郎平小屋-0:10→薬師峠キャンプ場C1
[7:45]
2日目
C1-0:15→太郎平小屋-2:20→薬師沢小屋-4:00→高天原峠-1:10→高天原山荘C2
0:35↓↑0 0:40
竜晶池
[9:00]
3日目
C2-1:10→高天原峠→岩苔乗越-0:10→水晶岳への分岐-
1:15↓↑1:10
水晶岳
-0:50→鷲羽岳-1:05→三俣キャンプ場C3
[6:00]
4日目
C3-0:50→三俣蓮華岳-0:50→双六岳手前分岐-0:15→双六岳-0:45→双六池キャンプ場C4
[2:40]
5日目
C4-2:50→千丈沢乗越-0:55→槍岳山荘-
0:30↓↑0:35
槍ケ岳
→南岳-0:05→南岳小屋C5
[3:15]
6日目
C5-4:45→北穂高小屋C6
[4:45]
7日目
C6-3:10→涸沢岳-0:20→穂高岳山荘C7
0:40↓↑0:35
奥穂高岳
1:45↓↑1:45
前穂高岳
[8:15]
8日目
C7-1:35→涸沢ヒュッテ-1:55→横尾山荘-0:55→徳沢園-1:40→上高地バスターミナル
[6:05]
計画の概要

温泉好きが昂じて立てた計画である。もともとは立山室堂から入山する予定だったが、Lのぼくが風疹にかかりプレ・が延期された。治ったと思ったら今度は台風が来襲し、結局プレ・は不完全に終わり、成立しなかった。よって以上のような計画に変更を余儀なくされたのである。

計画変更の際、どこをカットするかで結構悩んだ。剣立山か、穂高か、である。ただし、高天原温泉だけはカットするつもりは無かった。絶対行くつもりだった。落石で半死半生の憂き目に遭っても、下山するより先に這って浸かりに行って、俺の死に場にしようとさえ思っていた。07集会に計画(カット前)を最初に持って行った時、誰かが「長すぎるよ。無理だ。高天原カットしたら?」と言ったが、カットする位だったら、すねて夏合宿出すのを止めようと思っていた。ぼくはグルメと温泉に目がないのだ。ただし味蕾はボロボロで、熱い湯は苦手である。

合宿成功に向けて

とにかく長い計画だったので、計画達成のために色々なことを考えた。長い計画には、次のような問題点がついてまわる。

  1. 荷物が重い。
  2. パーメンの体調管理が難しい。
  3. いろんなアクシデントの起こる回数が、短い合宿と比較して相対的に多い。

主にこの3つである。まずI.に関してだが、13泊14日(元もとの計画)だと、1日3食として42食分である。これに予備日が加わるので、予備6日の場合更に18食増えて60食である。1食あたり平均1.5キログラムとすると、食糧だけで90キログラムに達する。6人のパーメンの場合、一人15キログラムにもなる。個装、団装を含めるととても一度に持てるような量ではない。燃料についても同じことが言える。

次にII.に関して。重い物を背負って歩き続け、満足な食事を与えられない場合、人間は体調を崩しやすくなる。合宿が長くなり、精神的な疲れが加わるとその傾向はますます強くなる。精神的な疲れ、モチベーションの欠落を予防するには、並々ならぬ精神高揚を施してやらねばならない。これも非常に難しい。

最後にIII.について。細かい事の蓄積が、やがては大きな事故につながる可能性があり、より細かい事にも目を行き届かせなければならない。

あと、さほど大きな問題ではないが、審議の時エスケ基準を覚えるのが大変というのもある(60か所以上あった)

I.~III.の問題点に対し講じた対策は次のとおりである。

  1. 徹底した軽量化。途中デポ。
  2. 募集の時、真にやる気のある奴だけを選ぶ。マンダムにする。
  3. とにかく想定しうるいろんなアクシデントとその対処法を考える。

I.について。以下のようなことを考えた。

  1. 太郎平小屋に、そこから先の食糧、燃料などをあらかじめ荷揚げしておく。
  2. 米は持って行かない。替わりに乾燥餅を持ってゆく(おかずと一緒に煮込んで調理する)
  3. 2.を実行する事により、コッフェルが1つで済む。食器も半分で済む。燃料も減らせる。
  4. 乾燥野菜を使用する。
  5. 酒は最小限にする(3~4日に1回位)。ペットボトルに移し替えてゆく。
  6. 行動食の中身は、グラムあたりのカロリーがなるべく高い物(カロリーメイト、かりんとうなど)にする。逆にゼリー、魚肉ソーセージのように水分の多い物は避ける。
  7. ブキを小さくて軽いやつに買い替える。
  8. 懐電も小さいやつに買い替える。使用する電池はリチウム電池にする。
  9. ろうそくは1泊あたり2/3本で計算する。
  10. 個装表、団装表に載っている物のうち、傘、スニーカー、たわしは止める。
  11. ザックの不要なストラップは外す。
  12. ポンチョ、ブス板の数も、パーティーで必要なだけに限定する。
  13. 水場の位置を詳しく調べる。山行中持つ水の量が最小限に抑えられる。
  14. 余計な物は持ってこないようにする。
  15. 山小屋での買い食いを許可する。

1.は、計画が短くなったのでする必要がなくなった。

2. と 3.については、「(前例が無いので)危険だ」と言う意見が多く、中止した。

14.に関してだが、あまり厳しくしすぎて、そいつが山で楽しむためにどうしても持ってきたい物&持って行かなければならない物まで制限しない様に注意しなければならない。例えば、山岳風景を写生したいと思っている奴に、絵の道具を持ってくるのを止めさせたりしてはいけない。これは、合宿は楽しむために行くのだという観点、山での楽しみ方は人それぞれだという事実からすると、本末転倒であるからだ。

15.は、「合宿中必要な物は自分達で持ち上げ、そして持ち帰る」という、平成9年現在の部の方針、というか暗黙の了解に照らし合わせて考えたものである。今回は、小屋で買い出しをすれば実行できる計画を、この理念のために捨てるのは勿体ない、と考えた。

II.について。募集の時に喋る内容をあらかじめ練っておく。今回は、この合宿の楽しみ所、楽しむためには強い積極性が必要だということ、そして体力的にはつらいということを説明することによって、パーメンが集まらなくなる危険はあったが、少数精鋭に絞ることにした。

当初は男女混合で計画を考えていたが、

  1. 女の子が合宿中体調を崩したという報告を、男が体調を崩したという報告よりもかなり数多く聞いていた。
  2. コンダムか、マンダムかを考えている時点(3月ごろ)では、どんな女の子が入ってくるか分からなかった。
  3. 新入部員として平均的な体力の女の子が入ってきた場合に、たった2、3か月で、強固なプレの練成、そして本番の激しさに耐えられるまで鍛え上げる自信が無かった。
という理由から、女の子の部員には悪いとは思ったが男のみとした。

III.に関しては、次のようなケースを想定し、それぞれに対する対処法も考えた。

  1. 靴の破損→瞬間接着剤、ねじ、ドライバー
  2. 脚気、壊血病→カルシウム錠剤、ビタミン剤
  3. テントポールの破損→予備ポール、予備ショックコード
  4. 高所の強い紫外線による日焼け→日焼け止め
  5. 岩場→ザイルトレ、岩場にある程度慣れた奴(俺、N西)がトップに立ちルート選択する
  6. 台風の時→小屋に逃げ込む→金がかかる→パーメンに大金を持ってこさせる
  7. 1年が、雑用の多さに嫌気がさす→食当は持ち回りにする
  8. 疲労→強行軍は避ける、休息日を入れる
  9. 歩荷力不足→プレで鍛える、パーティートレ

他にも色々とあったはずなのだが、忘れてしまった。

こういった合宿の基本方針や方法は2年の11月~3年の5月ごろにかけて考えた。コースの今年の詳細やコースタイムを、山小屋が営業を開始するゴールデンウィーク頃から調べ始めた。昨年、それ以前の状況は、方針と同時に調べていた。

こんな早急に行ったのは、北アルプスに合宿を出された05の先輩方が、3月で西条を離れてしまうので、それまでに詳細や注意点をお聞きしておきたいと思ったからである。

以上の要項で募集した所、1年はH田、Y川。2年はO田、M代が集まった。ミーティング、パーティートレを重ね、プレ。

例年プレIIIは芸北で行われているが、今回は日程的な問題もあって近場で攻めた。暑さという問題はあるが、こっちの方がアップダウンが激しくて錬成向きだと思った。図らずも想像を絶する世界を味わえた。

そして合宿は始まった。

西条→岡山→姫路→米原→岐阜→高山→富山

リーダーの日記(合宿中メモ帳に書き綴った日記。ほぼ原文のまま。)

くもり

午前3時まで出発準備に明け暮れ、あまり眠れないまま朝を迎える。下山後の着替えとガス缶、それとアタックを一度に持って自転車に乗るのは技術的に無理があるので、2回に分けて運ぶ。

6時50分西条駅着。昨日財布を無くし無一文のM代に1万円貸す。O田はポプラに弁当を買いに行っている。1年2人はまだ来ていない。N西は、忘れ物を取りに一旦家に帰ったらしい。

Y下が登山姿で現れる。N岡のパーティーは今日からプレ・なのだ。

Y川が見送りに来てくれた。その後、河村、E口と次々に現れる。

7時15分にパーメン全員が集合し、団装チェック。忘れ物は無い。しかし、皆のザックが9泊10日、予備4日分にしてはやけに軽い。なぜだ。忘れ物は無いはずなのに。軽量化が思った以上に功を奏しているのだと思うことにした。

青春18切符で改札を通り、西条駅の構内に入る。跨線橋を渡っている途中、横を歩いていたN西が、「人が多いから巻頭言止めようぜ」と言う。知るものか。

巻頭言を始める時点で、先程の連中に加え、I野さん、K野さん、S平さん、N富さん、S々木さん、07N島、08N島、N岡、F原さん、M野、K藤さんが場にいらっしゃった。そして巻頭言。

列車は定刻に入線。114系、転回クロスシートの車両である。乗車率5割程度。少々混んでいる印象を受ける。30秒停車なので、そそくさと車内に入る。

扉が閉まり列車が走り出す。ホームにいるY川たちも走る。

今回のアプローチは、女院W.V.と一緒であった。向こうも6人パーティーで、八ケ岳へ行くらしい。向こうのパーメンの一人、Oさんは、H田の幼稚園時代からの幼なじみで、H田は今回この人に弁当を頼んでいた。快くも6人分作ってくれた。ありがとう。女院パーティーからは、この他にもミカンの缶詰、ポテトチップスなどを頂いた。

列車が本郷に着く頃、H田はすでに熟睡していた。他の連中はまだ起きており、N西は九スポを読んでいる。読み終ったらしく、次は差し入れの中にあった、「モテる男の条件」を読み始めた。

Y川は通路にあぐらをかいて座し、差し入れの桃を皮剥きするのに夢中だ。通路は桃の汁でベトベトになってしまった。せっかく頂いた桃だったが、食べる時に汁が垂れるのでどうも不評。

O田も眠り出す。

三原からは、立ち客が現れる位に混雑してきた。それでもY川は、通路に座って眠っている。

Y川、H田のザックが凸凹している。後で詰め直させよう。

岡山着。14番線に入線。下りたホームの向い側、15番線から、30分後に姫路行きが出る。並んで待つ。ここでY川、H田のザックをリパック。一応形になる。

空は薄曇り。過ごしやすくてちょうど良い。H田は、差し入れの官能小説「兄と妹」に没頭している。いつになくその顔が真剣味を帯びている。写真に収めようとカメラを向けると、照れ臭そうにニヤリと笑った。

所で明日、富山から折立まではどうやって行こうか。(富山から先のアプローチを調べるのをすっかり忘れていた)富山から地鉄(富山地方鉄道)で有峰口、そこからバスで折立だと、予約はいらないが入山は8時頃になる。富山から折立への直通バスだと、予約が必要だが7時過ぎに入山できる。どっちでも何とかなるような気はするが、薬師ピストンもあることだし、後者の方がいいかもしれない。予約しなければ。次の乗り換えの時にでもやっておこう。

天気予報によると、明日午前中に、富山付近を寒冷前線が通過するらしい。雷が心配だ。あと増水も。それより今日の天気図はどこでどうやって取ろう。16時ちょうども22時ちょうども列車の中で、運の悪いことに2回とも終了前に列車が終点に着いてしまい、恐らく取っている途中で列車を追い出される。それにもめげず取って取れないことは無いだろうが、ちょっと無理があると思い、気象台への問い合わせと街頭テレビで何とかすることにした。ここらへんも詰めが甘かった。

姫路行きの普通列車は相当に混雑しており、乗った当初、O田とN西は立つことを余儀なくされた。この列車、降りる頃にはもっと客が多くなった。次に姫路で乗り換えた長浜行き新快速では、全員立たなければならなかった。そろそろ腹が減ってきたので、差し入れの弁当をいただきたいのだが、食べられるような状況ではない。

乗客が大阪で大量に入れ替わった隙に乗じて席にありつく。やっと弁当に手を付けられる。ご飯、コーンコロッケ、カボチャの煮付け、卵焼き、海苔、いんげんの胡麻和えのメニュー。すばらしくうまい。大阪、そして次の新大阪でも空席をゲットできなかったH田は、かわいそうに立ち食いしている。

米原で新快速を降り、そこから浜松行きの快速で岐阜まで行く。名称こそ快速だが、大垣までは各駅に停まる。通勤列車並に人が詰め込まれる。岐阜駅で降りる時には、人混みの中を泳ぐようにして脱出しなくてはならなかった。女院パーティーとはここでお別れ。

高山行きの普通列車は、16時15分発。少し時間があるので、下宿の新聞を止める電話をASAにかける。領収書に書かれたASAのフリーダイヤル番号が、地域外のため使えず、104で聞いてかけなければならなかった。

次いで富山地鉄にも電話し、明日の折立への直通バスの予約を試みるが、満席のため予約不可。よって明日は、5時8分に富山駅を地鉄で発ち、有峰口へ。6時40分のバスで折立へ、という行程に自動的に決まった。

雨が降りだした。今しがたまで時折顔をのぞかせていた青空は完全に消え、いやな空模様になってきた。

16時少し前に、高山行きが入線した。キハ48の2両編成だ。乗り込む客の数は思ったより多く、車内は賑やかだ。定刻に発車。この列車は終点まで利用するので、乗り過ごさないように起き続ける必要がない。時間も4時間位かかるので、一眠りする。

中川辺のあたりで目が覚める。父の実家の近くであるこの近辺には幼年、少年時代の色々な思い出があり、それらを回想しつつ車窓の風景を眺めていると、懐かしさが込み上げてくる。

上麻生駅の少し手前で、細い道路が国道41号線から西側に分岐するのが見える。父の実家へと続く道である。車社会に適合しない道路幅で、車同士のすれ違いには苦労する。改修される気配はまだない。

1本の小川を渡る。茂みに覆われていて、車窓からでは、そこに川が流れていると知らない限り見落としてしまうような小川である。昔よくここへ水浴びしに来たものだ。水は澄み、川底にはハゼの一種の小魚がたくさん棲んでいる。ウナギもいる。この川をちょっと上流に行くと砂防ダムがあり、恰好の遊び場であった。もっと上流には何があるんだろうと思い、一度遡行したことがある。20分も遡ると、再び砂防ダムが現れた。ではこのさらに先には何が?しかしここから先は薮が激しくて侵入できず、今だ私にとって未知の領域である。今の私なら薮こいで進めるかもしれないな。行ってみたい。

理由は無いが先を知りたくてがむしゃらに進む。こんな発想が、ワンゲルの活動の原動力であると思う。なんて考えているうちに再び眠りについた。

いつの間にか飛騨金山に着いた。ここで列車は、後続の「ひだ」をやり過ごすために16分止まる。腹が減った。差し入れのドーナッツをみんなで回して食べる。パーメンはそろそろ長旅にお疲れのようで、シートに横たわって眠っている。さすがにここまで山奥に入ると乗客の数も少なくなるので、シートを何人分か占領して眠ることも可能である。

雨なのかガスなのか分からないような天気だ。風景が徐々に闇の中へと沈んでゆく。そこから約2時間で高山着。

ここまで乗ってきた列車が、そのまま富山行きの普通列車に化ける。新たに乗ってくる客も居たが、降りていった客の方が多かったので、車内はますます静かになった。パーメンも、歓談する気力がすでにないらしい。車輪がレールの繋ぎ目を拾う音と、キハ48のディーゼル音だけが単調に繰り返される。

H田の、プレ・後にイカれてしまった膝の調子は、まだ良くないらしい。明日、あさってと登りの多い行程が続くので、食糧を再分配するか、水を他の奴が持つかした方がいいかもしれない。他の奴等は五体満足、健康そのもののようだ。

富山着。疲労の極みに達したパーメン達は、フラフラと歩き、富山駅のステーションデパートに上がるエスカレーターの横にウレタンを敷き、さっそく寝支度を始める。すぐ近くにHeart・inがあり、ここで明日の朝食その他を買い出す。

トイレで歯磨きし、23時15分ごろ横になる。天気図は取れなかったので、177と週間予報に頼る。それによると、週前半は晴れ、その後は前線に覆われて雨らしい。とりあえず明日は晴れ時々曇り、一時雨。地上の天気予報だから山の上ではもっと悪いだろうが。天候も含め、明日からどうなるか楽しみだ。

折立キャンプ場→太郎平小屋→薬師峠キャンプ場

くもり→にわか雨

4:00起床。皆ムクムクと起き、昨日Heart・inで買っておいた朝食を食べ始める。寝ている間に周りはステビバ族でいっぱいになっていた。女性一人という猛者もいる。

4:30頃、地鉄(富山地方鉄道)の入口が開いた。自動券売機で有峰口までの乗車券990円を買う。乗る予定の5:08発の列車は急行列車なので、これに加えて急行券100円が必要でこれも買う。

この列車は、大阪から立山への直通夜行「リゾート立山」。金さえあれば、昨日のような長い鈍行アプローチを経ずともここに来ることができる。乗りこんだ当初はガラガラだったが、発車直前にゾロゾロと客が乗り込んできて、席が全部埋まる程度の混雑となった。

車両は485系電車3両編成。リクライニングシートで乗り心地は良好。

空が明るくなってきた。層積雲が全天に広がっており、遠くの山並みの頂上を覆い隠している。涼しくて登るには調度よさそうだ。

H田の膝、左右双方ともに調子が悪いらしい。

車掌が券売・改札に来た。全車指定席なのにもかかわらず、指定席券は車内でしか販売してくれない。座席数を超えて客が乗ってきたらどうするつもりなのだろう。指定席券210円。

富山発が5:08。有峰口着が5:40。車両最後尾の車掌室から1車両分の改札・券売を終え、ここ2両目の後ろ寄りに車掌がやってきたのが5:30だった。したがって、2両目の前の方もしくは先頭車両に乗っていれば、指定券を買わずに済むかもしれない。

有峰口で降りる客は多く、(折立キャンプ場行きの)バスの混雑も相当なものだろうと思っていたら、はたしてその通りだった。

駅舎の券売所で、バスの乗車券を買う。片道2,130円だ。並行して、券売所脇の軒先で荷物を計量してもらい、その重量に応じて荷物代を支払う。これは6人分で3,300円になった。

バスは、町中でよく見かける普通の路線バス用の車両だが、とにかくぼろいのが特徴である。塗装は色あせ、ところどころはげて錆びついている。車内には座席と手すり、そして運転装置以外には何もなく殺風景である。座席数は、固定席28、補助席7の計35席。これに、運転席横のわずかなスペースに折りたたみ式の椅子を2脚置くことによって、定員を(運転手を除き)37名に増設している。今日は客が多いためか、こんなバスが2台、駅前に待機している。

バスの出入口は前後2ケ所にあり、前のほうから人を、後ろのほうから荷物を載せてゆく。2台のバスの乗客数が均等になるように乗せてゆくのではなく、まず1台目が満員になるまで乗せ、ついで2台目に乗せてゆくというあんばい。私達はみな1台目に乗り込んだ。

駅の係員と話しているうちに、折立キャンプ場に電話がないということが発覚。あわててここで入山連絡をする。危ないところだった。ちなみに駅には電話(緑色のカード式)のほか、トイレ(トッペ付き)、水道がある。

バスの発車時刻は6:40だったので、私とO田はバスの外に出てフラフラしていた。すると6:15頃、いきなり1台目のバスの扉が閉まり、発車してしまう。どうやら定員に達し次第、先に1台目から発車するようにしているらしい。やむなく2台目で行く。こちらはちゃんと6:40発車。混雑はさほどではなく、かえって1台目で行くよりも快適であったと思う。この車の左後輪は、まぎれもなくパンクしていた。恐ろしい。1時間で折立キャンプ場着。1台目で行ったH田、Y川、N西、M代の4人は、すでにザックを枕に昼寝している。

このキャンプ場は、タダで泊まれて、水と炊事場と水洗トイレが備わったいい所である。ただし電話はない。いいムードの喫茶店みたいな売店があり、いろいろな物を売っているようだった。(内容は確認していない。)

水を各自1発ずつ入れて出発。私達の乗ってきたバスでここにやってきた人々も、当然だが大部分が同じコースを時を同じくして登り始める。取りつきには「太郎平を経て薬師岳へ」と書かれたでかいポールが立っている。道幅は広く、相当に踏まれた登山道なので快適だ。

しばらくは、広島の山のような植生の中をタラタラと登る。アップダウンはなく、ずっと登りだけなので気は楽。

約1時間30分で三角点まで駒を進める。ここらへんから、ハイマツやササといった背の低い植物が多くなり、涼しくて気持ちいい。と同時にいい展望が開ける。来た方向を振り返ると、有峰湖が良く見えた。かたや進行方向を見ると、向かう太郎山の頂上付近は濃い霧に包まれている。あの中に突っ込んだらどうなるのか興味深い。稜線の横の斜面を、吹き上がるようにガスが流れている。なかなかカッコイイ。

いま歩いている登山道には、その大部分に石畳や木道が取りつけられており、取りつけられていない部分を一般国道とすると、さしずめ石畳はハイウェイ。木道はアウトバーンである。木道に入ると実際、歩くスピードはそれまでと比較して1.2倍程度に上昇する。資材を歩荷、建設してくれた人達に感謝したい。石畳が登りの稜線に取りつけられていたりすると、その末端はガスの中へと消えていって見えないので、まるで天国へと続く階段のような風景に思える。

石畳や木道が多いということからも察しがつくように、コースは極めて入念に整備されている。太郎平小屋に至るまでの間、分岐は一つもなく、まず迷うことはない。三角点を過ぎてからは200~300mおきに案内標識が設置されており、そこには高山植物の絵と名前、植生保護のため歩道を歩けという主旨の文、そして折立および太郎平小屋までの距離が記されている。

11時45分、太郎平小屋前の広場に着く。天候が悪いにもかかわらず登山者の数は多く、かなりのにぎわいを見せている。おおくは昼飯作りに忙しい。小屋は相当でかく、めし3食付きで1泊9,200円らしい。カード式の公衆電話があり、全国どこへでもかけられる。たとえカードや小銭がなくても、小屋でカードを売っているので問題ない。太郎平小屋オリジナルのカードが50度数800円だった。各種食料も扱っている。300~500円と、あたりまえだが高い。ビールは350ml缶が500円だ。

テン場の受付は、ここではなくテン場でやってくれるそうなので、さっそく向かう。この間の道も、良く踏まれており歩きやすい。むしろ踏まれ過ぎで植物が枯れてしまい荒れ地となった部分の方が面積が広く、痛々しい。20分で着く。

ほかのパーメンにテントを設営させている間に、私は管理所へ手続きにいく。キャンプ場の傍らに、コンクリート製の、立地面積1a程度の小さな小屋が建てられており、ここが管理所である。

粗末な木製の戸を開け中に入る。中は薄暗く、入ったところが土間。そこより先は一段高くなっており、土間との境界にカウンターが設けられている。「太郎平小屋」とプリントされたエプロンを身につけた60歳位のおやじが受付に座っており、彼の背後には様々な備蓄物資が山積されていた。

申込用紙に、団体名、人数、代表者の住所氏名電話番号、前日の宿泊地、明日の宿泊予定地、ここへの到着時刻、明日の出発予定時刻を記入し、1人500円の幕営料金を支払う。消費税はつかない。すると、小さな紙の札を渡される。これをテントの入口にしばり付けておくと、料金を支払ったという証明になるわけだ。

テントに入り、女院からもらったミカンの缶詰を食いおわると、皆疲れていたのか三三五五眠りにつく。この頃から、断続的ではあるものの、テントのフライシートがバシバシと音を立てるくらいの雨が降り始める。薬師沢が心配だ。

15時30分から夕食準備。まず小さい方のコッフェルで明日の昼飯の爆弾の米を炊く。次にでかい方で晩のおかず。今日はスキヤキらしい。しかしジャガイモ入り。

野菜一種類につき乾燥野菜ひとつかみで計算したが、ちょっと少なかっただろうか。いや、見た感じかなり少なめだ。やばい。

おかずを作っている間に小さいコッフェルをヤマネし、晩の米にかかる。ちょうど天気図が完成した時分に完了。

天気図によると、九州の北西には低気圧。北海道の西にも低気圧がある。さっきから降り続いている雨は、後者の寒冷前線によるもののようだ。前者からも、南にまっすぐ寒冷前線が延びており、これは九州の西で停滞前線となって、さらに西へと延びている。こいつが移動してきて日本上空に横たわれば、大雨、長雨となり、薬師沢を渡るのは難しくなるだろう。だから、明日の疑似好天の間に高天原に着いていたいところ。というわけで、明日は史上初の1時起床とする。「なにかその理由を教えていただけると有り難いんですが。」とH田が聞く。これは彼の口癖である。

17時にヤマネ終了。17時20分からデザート。今日は酒は飲まず、紅茶とリンゴ、オレンジという内容。これに加えてカルシウム錠剤を一人5粒。粉っぽく全く味のしない代物だった。18時頃就寝。柑橘系を食うとトイレが近くなって困る。(補足:このキャンプ場には、このほかトイレ、水場がある。)

薬師峠キャンプ場→薬師沢小屋→高天原峠→高天原温泉

にわか雨→晴れ

予定通り1時起床。朝食はスパゲティ。寝ている間に1回強い降雨があったような気がするが、今は止んでいる。風は微風。周りのテントはさすがにまだ静かだ。

ガスの中懐電行動。小屋から500m位の間は、道幅があまりにも広すぎて、時々どこを歩いているのか分からなくなる。それでも着々と進む。

薬師沢源流の1本目の渡渉地点は、橋が掛かっておらず、水面から顔を覗かせた岩の上を飛び跳ねて渡る。あと15cm増水していたら、これらの石は恐らく見えなくなってしまうので、そうなったら膝まで水に漬かって渡らざるを得なくなるだろう。

この次の渡渉は、橋が掛かっているので問題ない。ここから薬師沢小屋に至るまでの間は、ほとんどが木道になっていて非常に歩きやすい。3本目の渡渉も橋が掛かっている。

空全体が、どんよりとしたくもり空。なぜか青空が顔を覗かせたりもするが、しとしと雨が降りつづく空模様である。もともと会話の少ないパーティーだけに、こうなるとピッチ中もほぼ無言。まさに行軍と化す。

5時30分、薬師沢小屋を通過。ちょうど小屋では朝食の時間だったらしく、納豆と味噌汁の匂いが漂ってきた。なかなか空きっ腹に効く。今日のひるめしは爆弾。計量時の誤差のため、日によって爆弾の大きさが違うのは仕方ないのだろうが、よりによって今日のような長い行程の時に小さいのはなぜだ。そう。今日の爆弾は明らかに小さい。くそ。

薬師沢本流に掛けられた大きな吊橋を渡り、10段位のはしごを下る。そこから沢沿いに北進すると、すぐに雲ノ平への分岐が現れる。これを横目にさらに北へ進む。ここからが、大東新道と呼ばれるコースである。

いきなり河原歩きから始まった。感覚的には沢の合宿の河原歩きに近く、時々へつりが入ったりもする。なだらかな河原なので、落ちても濡れるくらいでそれ程危険なわけではない。しかしながら、時々川べりから離れて高巻くような所もあり、そんな場所では落差が大きくなるので落ちれば当然危険である。この状況は、富山県警に教えてもらったコースの状態と大きく違っていたので少々焦った。そんな私の動揺をよそに、パーメンは黙々と進み続ける。コース上には、いたるところにペイントが書き込んであり、それらは全面的に信用して問題ない。

A沢の渡渉は簡単だった。もう少し増水していたら、シャワークライミングが楽しめたかもしれない。ここからB沢との出合いまでの区間には、川面沿いの本コース以外に、増水時通行用の予備コースが、ちょっと高いところに設けられている。本コースと予備コースとの間は、取りつけられたロープを使って行き来できるようだ。ただしこの予備コースは、文字通り予備のコース、つまり普段余り使われていない道なので、見た感じではあるが、少々かぶっている。

B沢出合いの岩に、1文字が畳2畳くらいの大きさの字で、「高天原へ→」と書きなぐってある。この文字の位置で河原歩きは終わり、斜面の登りが始まる。トラバースと急登の繰り返されるやっかいなところである。

高天原峠に至るまでの間に、C、D、E、F沢の4本の沢と出合う。沢と出合う個所の前後は、切り立った川崖を上り下りすることが多く、ちょっと危険。沢の渡渉自体はというと、C、D、E沢は比較的通過しやすい。ただしE沢は水量が多目なので、増水時はルート捜しに苦労するかもしれない。今回は、水量は多かったものの、たまたま岩が渡りやすいような配置になっており助かった。今後洪水などでこの配置が変わってしまったら知らない。

F沢は、水量いかんに関わらず危険な沢である。滑りやすいし、滑ったら相当に危ない。なんてことを考えているそばから私が滑り、1メートルほどの距離を滑落。うちのパーメンは誰も気付かなかったが、30メートルくらい後ろを歩いていた後続のパーティーにバッチリ見られてしまった。中年女性が悲鳴をあげる。これからさあ渡ろうという人達に恐怖の念を植えつけてしまい申し訳なく思った。

ほどなく峠に着く。ここからの下りは、うってかわってなだらかな土の道だった。しかしぬかるみが激しく、ジャージはドロドロに、足は靴下まで浸水した。

高天原に出てからも道の状態は相変わらずであった。道以外の部分は、高山植物が咲き乱れるなだらかな湿原で、なかなかのものなのだが、皆、少しでもぬかるみの少ない部分を行こうと足元ばかり見て歩いているので、この景色が印象に残ったかは疑問である。

そんな湿原の、周囲と比べて3メートルほど高くなった丘の上に、高天原山荘は建っている。

木造2階。玄関の前に、10メートル×3メートル矩形のテラスがある。テラスには、2つのテーブルと、それらに対応するベンチが設置されている。自炊の場合ここで調理をする。屋根の付いたテーブルはうち1つだけなので、雨の日はどうするのか心配だ。

私の下宿の風呂桶を縦に2つに割ったくらいの大きさの水槽が、玄関の右脇に置かれている。そこには谷川から引いてきた水が注ぎ込まれており、自炊にはこの水を使う。水槽の中ではジュースやビールが冷えていた。無論売り物である。

このテラスにザックダウン。私は宿泊手続きしに小屋の中に入る。小屋の外観はなかなか年期が入っている。窓ガラスにはところどころ亀裂が入り、かつて垂直だったはずの柱の多くはこころもち小屋の重心に向かって傾いている。厳しい気象条件にさらされたであろう壁板は、海岸に流れ着く流木のように白っぽく色あせ、角が取れ、建築物の素材という感じがしない。まるで昨年取りこわされた千田のBOXである。

一方内装はというと、きれいに掃除されていて、調度品も凝ったものが多く、いかにも「山小屋」という感じで外観と対照的である。

玄関を入ってすぐ右がカウンターで、山荘のご主人らしき中年の男性が受付を行っていた。素泊まりを申し込む。昨日と同じような記入用紙にいろいろと書き込み、ひとり5,250円(税込み)の宿泊料を支払う。「高天原山荘」と印字されたボールペンを記念品にいただいた。

ご主人いわく「今日はかなりの混雑が予想されるので、3畳で6人寝て下さい。窮屈で申し訳ありません。」しかしテント泊と比べれば一人当たりの割り当て面積は2倍近い。今日はさぞかし安眠できる事だろう。

カウンターに向かって左側に、2階へ上がる階段がある。パーメンを呼び寄せ、全員で2階へ上がる。階段の壁には、かつてここを訪れた人たちが残していった色々なメッセージが書き込まれていた。階段を上がり切った地点を端点として、コの字形をした1辺20メートル位の長い廊下が走っている。廊下の左右がゴザ敷の寝床で、廊下の走る方向と直角に泊まり客は寝そべる。一人に対し一つずつ、敷布団、かけ布団、毛布、枕がそれぞれ置かれている。外周の壁には、窓が帯状に取りつけられており、すなわち外壁と接しているどの寝床からも外の様子が伺える。

私たちの寝床は、階段を上がってすぐのところで、窓側であった。ザックは廊下の柱に立てかける。15分ほど休憩し、温泉に向かう。いよいよ念願の高天原温泉である。小屋から温泉までの道もぬかるみが激しかった。

温泉気分を盛り上げる硫黄臭が漂う硫黄沢のほとりに、温泉はある。登山道と硫黄沢の出合いにあるのが女性専用風呂、つまり女湯。温泉全体が木の板とすだれで覆われておりガードは完璧だ。プラスチック製の屋根もついている。囲いの大きさは縦2メートル×横3メートル×高さ1.8メートル。

混浴風呂(事実上男湯という話もある)はここから20メートルほど上流にあり、こちらは開けっぴろげな造りである。直方体6面の内3面の壁がない更衣室が備わっている。湯舟は10人位入れそうな大きさで、白い湯の花が一面に浮いていてまるでにごり酒だ。2人の先客がおり、ビール片手にこの世の極楽を味わっているようだった。湯舟の縁には、洗い場として使って下さいとばかりに木板が何枚か置かれているが、この上で直立すると登山道から体が丸見えになるので、あまり使いたくはない。

温泉は帰りに入る事にして、先に竜晶池に行く。温泉から竜晶池に向かう登山道の取りつきは女湯の真横にあり、恥ずかしがり屋の僕たちは大いに困った。

池までの登山道も、小屋から温泉までと似たような状態だった。

竜晶池。決して派手ではなく、むしろ北アの山中では地味な方に入るだろう。しかし、来てよかった。最終地点、さいはて、一番奥、そんな形容がよく似合う景勝地である。実際、どこから入山しても来るのに最低2日、往復で4日かかる、北アでもっとも奥深い所だ。ゆえにここにたどり着いた登山者が得る充実感は格別である。

ここで幕営してしまいたいような気分になったが、無理な話なので帰る。いよいよ温泉である。

混浴風呂にはあいかわらず2人の先客がいた。同じ様にビールを片手に入浴している。うらやましい。全員全裸になり湯舟に体を沈める。熱い湯が苦手な私にはちょうどいい位の湯加減であった。2日の間にたまった体の汗を洗い流す。生気が蘇えるようだ。温泉に入った人が、よく、「極楽、極楽。」とひとりごちているが、その気持ちが良く分かった。長く漬かっていても、首から上は涼しい風に吹かれているのであまりのぼせない。結局30分ほど入っていた。

ドロドロになったジャージを次いで硫黄沢で洗い(これは失敗だった。後でかなり臭くなって困った)、身も心もさっぱりした。眠気が波のように襲ってくるのをこらえつつ、小屋への道を行く。

小屋の2階に上がると、すみやかに全員眠ってしまった。

15時30分から夕食。心地よい目覚めだった。1階に降り、ベンチに腰掛けて調理を始める。今日の食当は私である。久しぶりで腕がなる。1年の時、「高いから」という理由で素材の半分以上を削り取られてしまい、今回リーダーの権限を活かしてそれらを復活させ、さらにグレードアップさせた「トムヤムクン」がメニューである。一人当たりの食費は、米も含めると約800円/1人。涙が出るほど旨かった。

続いて酒を飲んでいたら、隣のベンチで歓談していたパーティーのおじさんがこちらにやって来た。「広大の方ですか。」私達が着ているユニフォームのネームを見てそうおっしゃる。「実は私も広大のOBなんですよ。」奇遇ですね。話を続けると、この人はユースホステルクラブのOBで、ワンゲルのオープンWに参加していただいた事もあると分かった。学年は確か5X(詳しくは忘れた)。「これも何かの縁」と、缶ビールを2本差し入れて頂いた。またもや涙の出る思いがした。ありがとうございます。

つまみが少ないので、小屋でバタークッキーを買いみんなで食べる。300円だった。今日はビールの他に、N西の持ってきた酒を飲んでいるのだが、これがどうやらカ〇〇ムらしく(ペットボトルに移しかえてあるので断定はできない。本人は否定している。)、なかなかどうして胃壁を焼く。水で大幅に薄めて飲む事になった。

ゆるく寝支度し、みんな眠りにつく。夜になると、小屋の1階に置かれているストーブに火が灯された。寝る間際の耳に、小屋の御主人が、業務提携している2つの小屋(太郎平小屋・略称タロウ

薬師沢小屋・略称ヤクシ)と無線で通信しているのが聞こえた。小屋の略称はそのとき聞こえたものである。この高天原山荘の略称は「タカマ」という。

高天原山荘→岩苔乗越→水晶・鷲羽岳→三俣山荘

晴れ

今日を過ぎたらしばらく雨の日が続くと判断し、エスケープを使って岩苔乗越→水晶→鷲羽→三俣と移動する事にした。展望のない時にここらに行ってもつまらないだろうと考えたのである。起床した時点では曇っていて少々困惑したが、朝食を作っている間に晴れた。

食事は、小屋の外のテラスでしか作れないので、待っている身は寒い。メニューは雑炊。

5時50分出発。エスケープルートは、昨日の雨のせいでぬかるみが激しく、せっかく洗ったジャージがまた汚れた。M代はこのことを予測しており、カッパを下だけ身につけて歩いている。

O田は、のっけから1ピッチ1時間近くもハイペースで飛ばす。

水晶池への分岐でピッチを置いた。この時、場違いな蚊に悩まされる。プレ・の時並に群がって襲ってくる。10分の休憩の間に叩きつぶした数は40は下らない。

水晶池への分岐からは、約3分で池のほとりに着く。ここでNHKの取材班と遭遇。ハイビジョン番組の収録を行っているようだ。

2300メートルを越える頃、周りの植生が、鬱蒼とした雑木林から、ハイマツなどの多い見通しの良い林に変わり、同時に登山道も、土中心から岩中心へと変化した。岩苔乗越までまっすぐ見通せる。水晶、祖父、薬師も、ピーク付近がガスに覆われているものの、よく見える。水晶に上がるまでに晴れてくれればよいが。まだまだ気温の上がる余地はあるので、そいつに期待しよう。

岩苔乗越登り、最後の方は急登。ペイントを辿って進む。登り切った地点からは、周囲360度のパノラマの内、標高2700メートル以下の部分が見渡せた。ここでM代からパイン飴が登場。

10分程登ると、水晶への分岐である。稜線だけにさすがに風が強く、半袖では寒い。全員カッパを着こむ。

ピストン準備をし、身軽になって水晶に向かう。ガスはほとんど晴れ、薬師、目指す水晶、鷲羽等はよく見えるようになった。しかし、槍のピークだけは依然ガスに覆われている。もどかしい。水晶ピークまで1時間5分。途中私はシャリバテになりかけた。途中1か所、傾斜70度、落差5メートル位の登りがあったが、大した事はない。

ピークには10人位の人がいた。ここからは、剣立山、富士山等が見える。ちょっと寒い。30分ほどピッチを置き、帰る。帰りのほうが簡単だ。コースは結構混雑しており、2、3分に1回位の割で人とすれ違う。渋滞するほどではないが。

帰りのコースも見通しが良い。ピストンの開始地点までの道のりがずっと見え、「ああ、まだこんなにあるのか。」と考えつつ歩く。しかも寒い。

元の地点に戻り、再びザックに背負いかえる。するとパーメンは急に慎重に歩くようになるので、コースの難易度はここから先少し高くなったが、かえって危なげなくなった。

鷲羽岳手前のピョコは、西側をトラバースする。高度感はあるが、道幅が充分に広いので安心だ。

鷲羽岳のピークでピッチを置く。快晴。空がとても大きく見えた。いつの間にか槍も全貌を現していた。

ここでY川に、「明日行くコース分かるか?」と意地悪く聴いてみたら、おもむろに、本コースから90度ずれたエスケを指さした。H田はどうやら地図を忘れてきたらしく、地図コピーで地図読みをしている。少々不安に思う。

鷲羽の下りはうねうねと蛇行した道で、地図上で見た目の1.5倍は時間がかかる。しかも落石が多い。12時30分に三俣山荘着。まず小屋の前にザックダウンし、私はテン場の手続き、O田は途中連絡を行う。テン場代一人500円。小屋のカウンターの背後には、ジュース250ml300円、350ml400円、つまみ500円、カップメンお湯付き300円、チョコレート300円、フルーツ缶詰500円、24枚撮フィルム700円などが置かれている。Tシャツやテレホンカード、バンダナもあった。チョコレートが魅力的。

脇に、「調子が悪く、通じない事が多々あります。」と但し書きのあるとおり、電話は通じず、途中連絡はできなかった。

小屋から、ハイマツの中に彫りつけられた小路を2分ほど歩くと、キャンプサイトに出る。出てすぐのところに、いい広さの空きがあったので早速そこにテントを張る。水場のすぐ隣でなかなか便利そうだ。フライはすぐには張らず、しばらく濡れたテント本体を乾燥させる。10分ほどで乾き、次いでフライを張る。パーメンも、濡れた靴下やシャツなどを、テントの回りの木や岩の上に広げて乾かし始めた。するといきなり曇ってしまった。

今日はテン場を飛ばし、明日からはC5の行程となるので、今夜はC4の夕食を調理しよう。明朝からは、C5B、C5L・・・と続ける予定。よってC3S、C4B、C4Lが余り、予備に繰り越される事となった。1年のザック重量を減らしたいので、今日C4Sを出したM代に、Y川が持っていたC3Sを持たせる。

3時間ほど自由。全員昼寝。

15時45分から夕食準備。今日の食当はO田。メニューは「肉じゃが」だそうだ。でき上がり盛りつけが終わり、私の所に回ってきたやつには、マロニーがほとんど入っておらず悲しかった。

食事後、小屋に用をたしに行く。このとき700円もするフィルムを買ってしまった。思いの他フィルムの減るのが早いのだ。この時点ですでに2本目の30枚目である。後90数枚。で、今+24枚。

テントに戻ると、天気図が完成していた。父島のはるか南には、「超大型で非常に強い」台風13号があり、視線はそこに集中する。不幸中の幸いでスピードはかなり遅いため、上陸するとしてもまだ間があり、早くて5、6日先だろう。が、西鎌尾根を渡る時すでに影響(風ね)が出てやしないだろうか。日本の北に寝そべっている停滞前線が刺激されやしないだろうか。心配だ。明日のうちに槍まで行ってしまえば、西鎌は安全に渡れるが、ここのところ長い行程が続いているのでできればこれは避けたい。結局、風による影響が出るのはまだ先だろうと判断し、明日は双六までの行動と決める。

17時30から紅茶タイム。なけなしの紅茶に主将杯を少し垂らし、味わい深くしようと企むが、垂らしすぎて酒の味しかしなくなってしまった。18時に終了。歯を磨きに再び小屋まで歩く。まだ明るい。が、ガスが深くなっており、鷲羽や祖父はほとんど見えない。と同時に、頬にポツリと雨粒。雨の日の山行にはできれば遭遇したくない。寡黙なパーメン達がますます寡黙になってしまう。

この時小屋から再度途中連絡を試みたら、何とか本部につながった。しかし、メチャクチャ混信していて話がなかなか伝わらない。カードが減るのも異常に早い。ちゃんと話は伝わったのだろうか(実際、一部伝わっていなかったらしい。後日談)

小屋のロビーにはテレビが備えつけられており、6時ちょうどから7時30分までの間と、17時40分から19時30分までの間の1日2回、電源が入っている。流されるのはNHK長野放送で、こいつで翌日の天気予報などがチェックできるのだ。テレビによると、今日長野市内は気温が35度を越え、この夏一番の暑さとなったらしい。

洗面所で歯を磨き、テントに戻り寝る。H田の寝言「何枚要る?」

三俣山荘→三俣・双六岳→双六池キャンプ場

小雨→晴れ→にわか雨

4時45分起床。10時間以上も眠ったため、頭が何だかフラフラする。テントから首を出し外を見ると、回りは濃い霧に包まれている。

EPIの火が赤い。

5時35分、出発の準備が完了。しかし1年2人がトイレへ。渋滞していたらしく、戻ってくるのに20分かかる。

すでに空は明るく、懐電無しで地図が読める。ガスっているが、雨は降っていない。時折ガスの晴れ間から青空、そして三俣や鷲羽が顔をのぞかせる。朝の内はガスッていても、日が昇り、気温が上昇するにつれ晴れていくものらしい。

三俣ピークまでは適当な登り。朝の運動にちょうどいい。別に危険個所もない。1ピッチでピークに着く。まだガスは完全には晴れておらず、展望ゼロ。異常に塩辛かった朝食のお茶漬けが今頃効いてきて、やたらのどが渇く。涼しい陽気にもかかわらず、水をつい8口くらいがぶ飲みした。

三俣ピークとその次のピョコとの鞍部にさしかかった時、谷底から突然強風が吹き上げ、ガスを一瞬にして吹き飛ばしてしまった。空は曇っているものの、展望は効くように。双六、笠、槍が一望できる。あと鷲羽も。

双六との鞍部で、雷鳥の雛を見つける。親の姿はない。隠れているのだろうか。写真に収めなければ、と、そっとカメラを取り出す。雛が視野に入ったその瞬間から、驚かせて逃がすまいとパーメンは身じろぎひとつしない。雛は、トップのO田の左前方5メートル位の距離にいる。70ミリが限度のこのカメラで、最後尾の私の位置から写すのはどう考えても無理があるので、カメラをO田に託し撮ってもらう事にする。私からO田へと順にカメラをリレーし、O田は撮った。よし。

結局親鳥は姿を現さなかった。

半分ほど双六の登りを登った頃、雨が降りだす。ピークでも雨。パーメンが、無言のまま行動食を口に運び続けるという、プレを彷彿とさせる光景が見られた。ピークには人が多かった。ちょうど、双六後屋を出発し三俣方面へと向かう人たちのラッシュに当たるのだろう。多くの人は写真撮影に忙しい。雨が降っているにもかかわらず、展望はさほど悪くない。槍がとてもきれいに見えた。そのとき気づいたが、槍だけではなく、キレットや穂高も見えているではないか。数日後に行けると思うととても楽しみだ。

一昨年ここに来た時(双六はカットしたけど)は一面ガスで何も見えなかったので、ここら一帯がこんなに眺めのいい所だとは思いもよらなかった。ちょっと双六を見直した。

ガスの時迷いやすいとされる双六の下りは、以下のようなコースであった。まずピークで主稜線から外れて下る箇所だが、岩に二重丸のペイントが書き込んであるので問題ないだろう。ここからなだらかな枝尾根に向かって下りて行くわけだが、ここは道が良く踏まれていて、他と色が違っているので迷う事はないだろう。なだらかな尾根に乗ってからは、全体が荒れ野原のような状態で、踏み跡とその他の部分との区別がつけにくい。視界が20メートル以下なら注意が必要だろうが、地図とコンパスさえあれば大丈夫でしょう。途中、高さ30センチメートル位のポールが1本。

しばらく行くと、ハイマツ林にいきなり変わる。林の中には1本トレースが走っており、ここからは少し急な下り坂だ。もしここたどりつくまでにルートを見失ってしまったならば、植生保護は二の次にして荒野をつっきり、ハイマツが密生しているところまで進む事だ。次いでそのハイマツ林との境界沿いに稜線の先端に向かって進んでゆけばよいだろう。多分いつかは見つかる。

ハイマツの中の急降を下り切った所が双六トラバースとの合流点で、ここは平坦な広場である。しかしまたすぐに急降。ここもハイマツ帯で、眼下には双六池キャンプ場が見える。キャンプサイトには、まだ出発前なのか、もう到着した後なのかは分からないが、7張ほどのテントが張られている。ここのテン場はキャパシティ60張りとやや小さめだが、張る余地は充分にありそうだ。

双六小屋の裏手に出る。一旦小屋の玄関前で置き、昨日と同様私は幕営料を支払いに、O田には途中連絡をさせる。

幕営の申し込みは、小屋の玄関を入って左手のカウンターで行う。ここも一人500円、消費税はつかなかった。

公衆電話はなく、連絡には小屋の衛星携帯電話を借りなければならない。ここで信じられない事が起こる。途中連絡のために電話を借りようとしたO田が、小屋の従業員に「お電話(オデンワ)ありますか?」と尋ねた。すると従業員は、「600円になります。少々お待ち下さい。」そしておもむろに業務用内線電話の受話器を持ち上げ、「すいません、オデン一丁お願いします。」

気をとり直し今度は本当に電話。使用料は、全国一律1分間200円とバカ高い。M野さんへの途中連絡だけで700円もかかってしまった。衛星中継による会話なので、こちらの声が向こうに届くのに1秒。それを受けて相手のしゃべった声がこちらに届くのにさらに1秒を要する。そのへんの呼吸をうまくつかんで話さないと、支離滅裂な会話になってしまう。

テン場に移動し、テントを張り終ったのが9時ちょうど。15時30まで自由にする。

自由時間の過ごし方・・・M代はテントの外で昼寝。O田は例の小説を読みふける。Y川は、「水なしで洗えるシャンプー・すすぎ不要」で頭と体を洗う。行動食をすでに食いつくしたN西は、テントの床の対角線上に横たわり、テントを占領するようにして眠る。H田も昼寝。私は絵を描いていた。

小屋の設備その他について。水は双六から流れ落ちるやつを利用しているようだ。水量は豊富。トイレは2か所あり、双六の登山口に近いほうは、山のトイレとは思えないほど清潔で木の香りがする。このトイレを含めた小屋の本棟はつい最近改築されたようで、真新しい。小屋の玄関前の広場にはベンチつきのテーブルが7つ置かれており、各6人は座れる。小屋が経営している喫茶店の座席も兼ねているようだ。この小屋はかなり商売熱心で、商品の品揃えは豊富である。喫茶店に関しては、牛丼、カレー、ラーメン各700円。前述のおでん600円。生(!)ビール800円。コーヒー(インスタントではない)400円。チーズケーキ400円、コーヒーとセットで700円。牛乳、カルピス(HOT or ICE)300円。缶ビール500円。ジュース300円。りんご(果実がそのまま)300円。ぜんざい500円がある。小屋のカウンターでは、マグカップ1,200円。ダクロンTシャツ2,500円。撮りっきりコニカ2,200円。手拭い300円。絵はがきセット500円。テレホンカード50度数1,000円など色々ある。

驚いた事にポストがあり、ちゃんと全国どこにでも届けられるのだ。切手も売っている。郵便料金は下と同じで、はがきは50円でOK。しかし届くまでに1週間程度かかるらしい。郵便局員が直接ここに収集しに来るわけではなく、従業員の誰かが下に降りる用事がある時ついでに持って行って、下のポストに入れてくれるというシステムなのだ。私はここで絵はがきと切手を買い、実家に送った。

テントに戻ると、皆ことごとく眠りについていた。H田は外で寝ている。

私も寝る。寒くなってきたのでアンダーウェアをザックから引きずり出し、身につけた。腹がへった。さっき小屋のベンチに腰掛けて手紙を書いている時、隣のベンチからうまそうなカルボナーラの匂いが漂ってきて発狂しそうになったのを思いだした。

目が覚めたのは14時30頃。止んでいた雨がまた降り出す。それほど激しいわけではないが、台風の前兆かと思うと嫌なものだ。

15時30から予定通り夕食の準備にかかる。今日の食当はM代。天気図はO田が書いた。メニューは「ポン酢鍋」。あすのひるめし(C6L)はマッキーの予定だったが、H田がすしのこを忘れた上、いちいち巻く事に何の意味があるのかと思い、爆弾とする。中身はシーチキンと魚肉ソーセージ。ご飯は塩入りわかめごはん。Y川手伝え。

夕食の鍋の中身が、乾燥野菜人参玉ねぎじゃがいもひとつかみずつ、あと魚肉ソーセージ少々と非常に貧弱で、食後も充分な満腹感が得られなかったため、はったい粉を登場させる。ここで再びアクシデント。粉を練る湯を沸かそうとしたH田、水の入ったコッフェルと、食器・おたま・しゃもじの入ったコッフェルとを間違えて火にかけ、しゃもじを溶かしてしまう。しゃもじはダスター行き。懲役ものである。

はったい粉はかなり腹持ちがよく、なかなか好評。続いて酒飲みに移る。思いの他廻るのが早く、このパーティーにしては珍しくけっこう会話が弾んだ。

18時30分に就寝。隣のテントから、高校野球のラジオ中継が聞こえてくる。まだそんな時間なのか。たしかにまだ外は明るい。そういえば本番が始まってから一度も、夜にロウソクを使っていない。

明日の行動予定は、槍の肩でテン場か、風がすでに出ていれば槍にピストンした後槍平へ下る、というもの。ペースが早ければ南岳まで飛ばそう。最長で7時間位の行動が予想されるので、起床は3時30分とする。

寝る前にちょっとテントの外に首をだすと、雨は止んでおり、青紫の空と巻積雲がきれいに見えた。皆、今日は相当昼寝したはずだったが、酒が効いたせいで早々に寝ついてくれた。

双六池キャンプ場→槍ケ岳→南岳小屋

快晴

3時30分起床。朝食はうどん。しいたけとほうれんそう入り。麺類のわりに時間がかかり、出発まで1時間15分を要する。積雲がぽつぽつ浮かぶ空模様で、星がきれいだ。樅沢岳に登って行く人たちの懐電の明かりが、蛍を彷彿とさせる。

水を2発ずつ持ち、出発。次第に明るくなる中、こちらも樅沢岳へと高度を稼ぐ。ピーク付近で完全に夜が明ける。薄くガスっている。太陽の輪郭が透けて見える程度のガス濃度で、これが美しい。太陽をバックに逆光補正してパーティー写真を撮った。ここから見る朝日は有名らしく、三脚を担いだ登山者が5人ほど。

さて、ここからが西鎌尾根、いよいよ岩場の始まりである。とは言っても、最初の内は、なだらかな平原の中を進むコースで特に危険はない。ペースはやや遅め。

三角点2674.1を過ぎる頃から、道の様子が明らかに変わってきた。段々と地面の組成が、土中心から岩中心へと変化してきたのだ。すなわち岩の上を歩く事が多くなった。三角点の次のピョコをトラバースするコースは、一見右回りと左回りの2通りがあり、右に入ると途中で行き止まりになってしまう。正解は左。

ここからはもう完全な岩稜帯。しかしパーメンは、別に何という事もなくひょうひょうと進んで行く。N西が、地図ケースを手に持ったまま歩いているのが気になるが。

千丈沢乗越のかなり手前から、飛騨沢のエスケープが視界に入り、そこを行く登山者の姿もよく見えるようになる。ひたすら蛇行をくりかえして高度を稼ぐコースで、登るのも下るのも面倒臭そうだ。

千丈沢乗越には、分岐先を示す看板が建っており、分岐も明瞭。ここから槍の肩まで急登になる。ひたすらつづら折れを繰り返して高度を稼ぐ。1回、上を歩いていた登山者が落石を起こし、O田を直撃しかけた。結構登山者の数は多く、よく人とすれ違ったり追い抜いたり抜かれたりする。こちらが100リッタークラスのアタックを持って黙々と登っているのを見ると、たいていの人は先に通してくれた。ありがとうございます。

コース上で、特に滑落の危険のある場所はないが、落石は多い。ここでの注意点はそれに尽きる。

槍の肩に着く。急登が効いて1年はすでにくたばる寸前である。そこに喝を入れてピストンの準備。

ピストンに、私の隠し歩荷「オレンジ」を持っていく事にする。ひとりあたりまるまる1個分。キレットに備えて軽量化するのだ。ところがザックから取り出すと、そのうちの1個に青カビが生えていた。不覚にもこれを皆に見られてしまったので、こっそり持って行って皮をむいて渡してやれば気がつくめえ、というもくろみは外れてしまった(結局この1個は、下山するまで持っていなければならなかった。)。全然話は変わるが、今日の昼飯の爆弾は比較的サイズが大きく、今の時点でまだ半分以上残っている。いい感じだ。

O田に、まさかの時に備えてシュリンゲを託す。1年が詰まったら引き上げさせるのだ。

時々ガスの塊が下から吹き上がっては消える、という天気なので、槍はその全貌を現したり消したりを繰り返している。ピークからの展望もこんな感じだろうか。

さて、槍ピストンである。取りつきは正しかったが、正規のルートからはずれてしまったらしい。しかしながらよく踏まれており、途中に人も何人かいたので、ひょっとするとバリエーションルートのひとつなのかもしれない。途中はしごが3か所。ビスを頼りに登る所が1か所。後者には、ホールド、スタンスがこのビス以外になかったため、少々やっかいに感じた。しかしスイスイと進んでいけた。特にパーメンの動きに問題は見られず安心である。しかしピークに着いた時、O田、M代の口からは「実は高所恐怖症なんです。」との言葉が漏れた。にしてはよくやったね。えらいぞ。

ピークには15人位の登山客がおり、狭いピークにとってはかなり混雑している方だろう。ピークは楕円形の広場で、細い方の一端に登り口と降り口がある。中心に三角点。もう一方の細い方には小さな祠がある。祠の横にある岩に、「キタカマ↑」とペイントされており、こういうのを見るとつい行ってみたくなる。いつか、湯俣→槍→西穂を縦走してみたい。

祠には、過去にここを訪れたパーティーが残して行った看板の類がたくさん置かれており、この中のめぼしいやつを手に記念写真を撮る。写真に納まるために立った場所からの眺めは、この眺めのいいピークの中でも一段と良く、見飽きないのだが、後ろの方では写真撮影の順番待ちの人の列が出来上がっていたので、立ち退かざるをえなかった。

ここまで早いペースで来ることが出来たので、今日は再びテン場を飛ばし、南岳小屋まで行くことにする。もう少しピークで粘っていたかったが下る。

明日も天気のいい可能性が高いので、明日の内にキレットを越えてしまいたいというのがテン場飛ばしの理由である(あさってまでは自信が持てなかった。あさって崩れたらそのまま涸沢もしくは横尾に下りて沈するつもりだった。)。しかし台風もじらしやがる。

槍の肩に降り、慌ただしく出発の準備をする。いまさら言うのも何だが、あまりテン場飛ばしは好きではない。山は沈を置いても逃げないのだし、4年生、社会人になったら、もう10泊という非日常的な合宿など体験出来ないだろうから、とりあえず山に居るだけでもいいから、長く合宿したいのだ。そんな自分の口から、「テン場をとばす」という言葉を発するのは、まこと複雑な気分だった。

槍岳山荘のトイレの横を抜け、肩から下る。大喰岳との鞍部までは砂礫の中の小道を進む。登りに転ずると、直径30センチメートルから1メートル位の岩が中心の登山道に変わる。安全なルートはペイントで示されている。

大喰岳ピークは大した事なく素通りする。中岳との鞍部まで、緩やかな下りが続く。転じて登りは急登。ペイントに従って進む。

ここで再び雷鳥が現れる。今度は親1羽、子3羽の親子連れである。これもカメラに収める。そういえば昨夜のテントの中の会話で、雷鳥を食ろうて腹を満たせぬものか、という話が持ち上がったな。たしかに、子供の方なんか、脂が乗ってて実に旨そうに見える。皮を剥いで調理している所を見つかったら「これは鶏じゃ」と逆ギレすれば大丈夫だろう、とH田が言っていた。

中岳ピークのすぐ手前の登りは梯子がかかっている。約10段のが2つ。2つ目、つまり上の方にあるやつは、使わずに巻いて登るルートもある。ピークでピッチを置く。

ザックを置いてちょっと先のコースを見に行くと、この次の鞍部には少々雪渓が残っている。水が汲めるといいが。汲めないと水を買うはめになってしまう。

下る。何本ものルートがあるらしく、ペイントに従っているつもりが右往左往してしまう。鞍部目指してまっすぐ下ってゆく方がいいかもしれない。

中岳も、この周囲の山々と同じ様に瓦礫を積み重ねて作ったような山だが、形が円錐形に近く、南側から見ると灰色のピラミッドの様で迫力がある。

先程雪渓が見えた鞍部で一度ピッチを置き、水を汲みにかかる。しかし、流水が露出しているところが見当たらない。瓦礫の下の方で水の流れる音、滴る音はするのだが、相当下の方を流れているらしく、採水は無理。諦める。

この次の登り、つまり南岳の登りで、私の右アイガーの靴底が取れてしまった。もう時間も押していることだし、(といってもまだ12時過ぎだが)修理はテン場でやる事にして構わず進む。

コースの大部分は岩の上歩きで、いよいよ穂高の核心部が近づいているという事が予感された。

南岳ピークから3分ばかり下った所に、南岳小屋が建っている。南岳次の鞍部から右に折れてすぐのところにある。もう50メートルほど進むとキャンプサイトである。小屋とキャンプサイトの間にトイレ棟がある。

テン場のキャパシティは30しかなく、埋まっていやしないかと心配したが、自分たちが今日3人目の客で、拍子抜けした。ちなみに今13時ちょうど。小屋でテン場代一人500円を例によって払い、まずテントを設営する。一昨日、昨日、と、私の寝床はいつも傾いた場所で、ここの所寝不足気味。幸い今日は比較的広い場所が見つかりほっとする。

小屋付近に水場はなく(これは詳細通り)、水は小屋で売っている・・・はずだったが、ここの所水不足らしく、飲料水の販売が中止されていた。売っているのはミネラルウォーターのみ。500ミリリッター350円と、安い酒より高い。

今パーティーに残っている水が7発半(15リッター)。今日の行動中飲んだ水が3発半。明日穂高岳山荘に着くまでに今日と同じだけ飲むとすると、明日の朝までに使う量は4発以内に押さえなければならない。水制限を敷く。水が不足するとは迂闊だった。

今日O田の水ポリにポカリスエットの粉末を入れたら、水の減るのが普段の2倍以上早くなった。水が不足している時は、粉末は入れない方がいいだろう。

靴の修理にかかる。靴底からネジを5、6本打ち込み、アロンアルファで固める。とどめに呼び子の紐で縛って固定した。せめて涸沢に降りるまではもってもらいたいものだ。

15時45分からめし。今日の食当はN西(!)。メニューはチキンラーメン鍋。これは、通常の鍋の中に、粉々に砕いた(砕けた)チキンラーメンを注ぎ込んだものである。学年Wを彷彿とさせる一品である。私は装備係に廻る。EPIの装備は楽だ。

飯が終わり、酒に入る。N西は、今日は酒はいらないと言ったが、荷を軽量化させるためにそこを敢えて飲む。それでも18時には就寝した。

明日はいよいよキレット越えだ。台風はまだ北緯20度付近にいて、しかも動きが遅い。明日、明後日の午前中位は少なくとも持つだろう。そうすると、涸沢槍を越えた後、その日の内に涸沢へ降り、台風をやり過ごした後前穂ピストンか。そしたらあと5日位で降りられるだろう。どうなる事やら楽しみで仕方ない。

小屋についての記述・・・10円硬貨専用のピンクの公衆電話がある。音質は良い。ジュース類300円。チョコレート200円。柿ピー150円。フィルム(しかもリバーサルフィルム)850円。飲料水は、もし売り切れていなければ1リッター200円。カロリーメイト400円。オールレーズン350円。あとカンヅメがいくつか。トイレは懲役もの。

南岳小屋→大キレット→北穂高小屋

ガス→晴れ

(実はこの日は、N西の誕生日だったのだ。下山して実家に帰るまで気づかなかった。ごめん。)

3時30分起床。風速1メートル位の風が吹き、霧のような雨が舞っている。天候が、昨日と同じ様に変化していくとすると、ここらへんのガスが晴れるのは午前8時過ぎだろう。

4時10分食事終了。まだ外は少し薄暗かったので、4時30分まで待機する。テントの外の石を触ってみると、それほど湿っていない。風は弱く、雨が強くなりそうな気配もないので、キレットに突入する事にする。出発。まずはメガネごと撤収してしまったテントの解体から始まった。

今日はN西がトップで行く。獅子鼻と呼ばれる岩峰の右側を巻き、稜線のすぐ右側の斜面を急降する。かなり滑りやすい。2本の手と2本の足をフルに使って下ってゆく。ルートは、5メートルおきに、丸印やバツ印や矢印がペイントされており、相当深いガスの中行動しても迷う事はないだろう。

急降が一段落する手前に、はしごが2か所。各15段位。これを下った時、ガスが晴れた。南岳から北穂高に至る稜線が、全部見えるようになった。稜線より下の部分は、見事な雲海に覆われていて、3000メートル級登山ならではの景色にパーメンはため息を漏らしていた。雲海の縁から日が昇る。今合宿中最も美しい日の出である。

しばらく、西鎌のような適当な尾根が続く。

R100メートル位の円月輪を縦にしたやつの上半分ような形の岩峰が現れた。多分これが「長谷川ピーク」だろう。ここの下りがとってもスリリング。まず、東側を鎖で10メートルトラバース。その後痩せた岩峰の上を歩き、西側に下りる。下りる時は鎖を使う。落差は20メートルでほぼ垂直だ。

さらに何度か岩を垂直に下りるような所が続き、下りた所が「A沢のコル」と呼ばれる鞍部である。ここはキレットでは貴重な、地面が露出した平坦な場所。休憩にはもってこいである。私たちもピッチを置く。

ここに来るまでに何度か渋滞が起こり、足止めを食らったり食らわしたりした。コースが狭いわりに登山者は多いのだ。この鞍部で、後続の早いパーティーに先を譲る。

北穂を見上げると、北穂高小屋の赤い屋根が見える。崖っぷちに建てられており、何だか傾いている様に見えるが多分眼の錯覚だ。地震が起こったらどうなるのか。

出発。北穂高小屋までの道のりは、すべて「超」が付く位の急登。ガスは今や完全に晴れ、高度感は股間を縮み上がらせるのに充分である。前を歩いているH田の足首が、すぐ目の前にあるような事も珍しくない登りがこれでもかとばかりに続く。

30分位登った所から、3つの鋭く尖った岩峰が連続しており、登山道はこれらをトラバースして進んでゆく。1つ目の岩峰に取りつく所は、道、というよりはホールドとスタンスがちょっとある位で、あまつさえホールドはアンダーホールド(グリップ位)である。キレットの中でも最も勇気が試される所だろう。さすがに慎重にならざるをえない。矢神原と違って落ちたら笑い事じゃすまされないのだ。

3つ目の岩峰のトラバースを終え、道はちょっと下る。そこから再び登りに転じ、ここは鎖とビスを頼りに直登する。やがて登山道は、稜線からはずれ、ガレたチムニーの中へと入り込んでいった。ここが通称「飛騨泣き」と呼ばれる部分だと思う。ここも道が細く、1本しかないため、待ちが多々発生した。最後は、本当は全然平気なくせに「私もうダメ」と連れの男にしなだれかかっている若い女性を追い抜いて何とかキモは越えた。

あとはひたすら登るだけ。視界の一番奥に見える北穂小屋は、いくら登っても一向に近づいているように見えず、まこと精神衛生上良くない。途中ピッチを置けるような適当な平地が無かったという事も挙げられるが、このピッチは90分歩いた。全員半泣きである。

そういえば、北穂小屋に水は売っているのだろうか。またミネラルウォーターだけ、なんて事にならないだろうか。わざわざ水を求めて涸沢ヒュッテや穂高山荘に行くというのも馬鹿げているし、パーメンの疲労を考えると難しい。どうも出発時と比べ、疲れのためか1年の足取りがいいかげんになっているように見える。(ピッチを置かなかったのになぜこんな文を書けたのかというと、鎖場の順番待ちの時に書いていたから。)昨日も長かった事だし、今日はこれで切り上げたい。この天候なら明日も多分動けるだろうし、たとえ明日、あさって荒れたとしても、ザイテングラードを下る位なら何とかなるだろう。

ここに来て、段々とゴールが近づいてきた事を急に実感する。天候が持てば後2日で下山。あまりにもあっけなさすぎるように感じている。降りたくない。もっと山に居たい。居たいよう。

でも早くうなぎ丼が食いたい。

今イメージしているのはこんなやつだ。

まず、目の前に据えられた丼 は、洗面器位の大きさである。ゴトリと音を立てて蓋を外すと、炊きたての飯から立ち昇る湯気が私の顔を包み、眼鏡が真っ白に曇る。

やがて視界が晴れると、飯の上に畳のように並べられたうなぎの蒲焼が現れる。吹き出んばかりに脂がのっており、喉の奥がぐびぐびと鳴る。目が充血し、指先がかたかたと震える。よだれがたらーりたらりと溢れる。腰がぬけ思わず失神しそうになる。

丼 の横には茶碗が置かれており、中にはうなぎのたれと、わかんにアマニ油を塗る時使うような刷毛が入っている。

この刷毛を左手に持ち、右手には箸を持つ。そして、左手で丼の中のうなぎにたれを塗りたくりながら、犬のように丼に顔を突っ込み、箸で食っているのか口で直接食っているのか分からない位に激しくむさぼり食うのだ。

とろーりとろけたうなぎの蒲焼が銀シャリと混ざりあい、それを口の中でぐちゅぐちゅいわせながら充分に堪能したときの幸福感は格別であろう。

と、下山した後やりたい事のひとつも思い浮かぶようになってしまった。やはり終りが近づいているのだ。

ようやく北穂小屋の裏手にたどり着いた。小屋のテラスを通らないと先には進めないようになっている。このテラス、キレット方面を槍まで見渡す事のできる見通しのいい展望台である。ベンチとテーブルが置かれており、ここで食事を作る事もできる。

奥の方へ進んでゆくと、小さな売店に突き当たる。ジュース300円、チョコレート45g200円、チョコボール150円、ウィダー・イン450円、そして水1リッター200円だ。売っていて助かった。ここで10リッターを買う。テン場の受付、代金支払いもここで扱っており、いつものごとく一人500円。このとき張る場所を指定される。指定席なのだ。金と引き替えに、番号の書かれた木の板を渡される。22番と書いてあった。

売店に向かって右隣にはトイレがあり、これの横をすり抜けてさらに奥へ入ると、石の階段がある。ここを30秒も行けば北穂高ピークである。直径20メートル位の円盤上のピークで、かなりの人でごったがえしていた。素通りしてテン場へと移動する。テン場はまだかなり先なのだ。

小屋からテン場への移動には相当時間がかかり、小走りで行って約10分。しかもずっと岩場でアップダウンが激しい。トイレは小屋にしか無いので、括約筋の弱い奴だったら、トイレに着くまでにもらしてしまう事請け合いだ。22番テン場は、一番小屋に近い位置であったのが不幸中の幸いか。

テン場は、岩崚の岩をどけて、土を放り込んで踏み固め何とか整地したような狭い所で、6テンにはちょっと苦しい。しかし、売店でテン場を取る時に張数と人数を確認されているし、着いたのがかなり早くまだほとんどが空席だった事を考えると、これでもまだ広い場所を割り当てられているはずだ、と思い我慢する。こういう狭いテン場に幕営すると、テントの端が持ち上がってしまうので、はしっこで寝る奴(LとSLね)は坂の上で寝ているようになる。寝返りを打つと二度と元に戻れなくなってしまう。逆に真ん中で寝る奴は、両方から人が押し寄せる形になるので、身動きひとつ取れなくなり、暑くてたまらないのだ。何とかならないものか。

今9時45分。15時45分から食事準備とし、それまで自由時間にする。連日4、5時間近い自由時間が続くだけあって、みんないささか自由時間を苦痛に感じ始めたようだ。だるそうに昼寝している。N西は「今からでも遅くないからテン場を飛ばそう。」と言っている。

私はテントの外に出て、前穂、奥穂、涸沢の展望を眺めていた。よく見えるのだ。ここでフィルム3本目が終了。4本目に切り替える。

涸沢岳に続く稜線(涸沢槍)上には、意外に多くの登山者の姿があった。ペイントも、キレットと同じ位の頻度で書き込まれているようで、これなら多少ガスッていても行動に支障は無いだろう。涸沢のカールには、まだ少量ながら雪渓が残っている。

みんなシュラフにもぐり、本格的に眠りだす。N西が、トランプをやらないかと言う。やりたかったが、ここにきて私は急に便意を催してきたので、とにかく小屋へと急いだ。腹を押えながら岩稜帯を走るのは苦しい。股のあたりを気持ち締めるような不自然な格好で岩の上を跳びはねるのだから当然だ。テン場周辺の大きな岩の陰には、例外なくキジの2、3発が撃ち込まれており閉口したが、やった奴等の気持ちが分からないでも無い。北穂ピークを越え小屋に着き、トイレに駆け込もうと思ったら、山にしては珍しく、土足禁止なのだ。固く縛った靴ひもが、こんなに憎たらしく思えた事はなかった。

無事用をたし、落ち着いて改めてトイレの入口を見ると、そこに小さな机が置かれていた。上には2つの洗面器が置かれていて、それぞれ青く透き通った消毒液と、無色透明なすすぎ液で満たされていた。

テン場に帰ってから、「佐々木さんに、18日に荷物(下山後の着替え)を送ってもらうように頼んでいた」事を思いだす。このままで行くと2日後に下山。つまり17日だ。間に合わないのだ。送ってもらうなら今日しかない!と気づき、再び小屋まで電話しに行く。いい高所トレーニングである。

小屋の電話は緑のカード式だが、このときはカード使用可のランプが消えていたので、ありったけの10円玉を入れてかける。かなりの長距離通話でありながら100円玉を使わない所がセコイと自分でも思う。佐々木さんに事情を話すと、「すでに送った」とのこと。テン場を飛ばさず、予備日を全部使っていたらどうするつもりだったのだろう・・・・・・。

日差しは暑く強く、肌がちりちりと焼けるのがよく分かる。私は病的に皮膚が弱く、急激に日焼けすると寝る時つらいので、テン場に戻って日焼け止めを塗る。「トランプをやろう」と言っていたN西はいつの間にか眠っている。私も眠る。

15時45分から食事と言っておいたのだが、皆待ちきれないらしく、15時35分にEPIに火がかかる。今日は本職H田が夕食担当。黒く変色した乾燥じゃがいもと、腐りかけて一番美味な頃のベーコンの入ったハヤシライスがメニューだ。マロニーを入れたらかなり腹にたまった。H田の味つけはなかなかうまいと思う。

めし後、みんなをトイレに行かしとく。暗くなってからや酔った状態で行くと非常に危険。

17時40から飲み。

天気図によると、台風13号・945hpaは、北緯22度、東経135度にいる。進路は西寄り。明日正午の予想位置も北緯25度付近である。明後日までは台風は大丈夫だろう。少々気になるのが、九州の西に発生した低気圧と、本州の広島あたりにできた等圧線の膨らみである。今のところ、北上した前線は消えているが、こいつらのせいで復活しないとも限らんし・・・。疑い出すとキリがない。どちらにせよあさってまでは持つはずだ。大丈夫大丈夫。

18時30分頃眠る。眠る寸前、テントの外を見ると、鳥肌が立つ程美しい雲海と夕焼けだった。一番星が見えた。

北穂高小屋→涸沢槍→前穂ピストン→穂高岳山荘

終日快晴

朝飯が急遽、雑炊に変更され、起床は3時15分。「マーボーの素」でご飯を煮込んだ「マーボー雑炊」らしい。これは結構うまい。

1年がヤマネしている間にテントから首を出してみると、それはそれはもう満天の星空、眼下は見渡す限りの雲海であった。このテン場で泊まってよかったと思わせる風景である。

小屋のトイレは遠いので、バラバラに行っていると時間を食うと思い、行きがけに全員で寄っていく事にする。ザックを持って全員で小屋への分岐へと移動。ここでザックを置き各自小屋へ。トイレは渋滞していた。

ザックを置いた分岐からは、昨日の予告通り私がトップで行く。分岐から南に折れ、階段上に積まれた石の上を登って稜線に取りつく。稜線は、直径2メートル位の岩が中心の岩稜帯。踏んづけた岩が体重でわずかに動き、ごとごとと乾いた音を立てる。昨日テン場から見たとおりペイントは多く、この時期ならば道に迷う心配は全くない。

しばらくすると、道は、昨日の南岳の下りのようなガレ場になる。稜線からは外れ、滝谷側をトラバース気味に下りてゆく。

下り切った地点から、鋭く尖った高さ(今いる位置から見て)15メートル位のピョコ、というか岩峰が5つ位連続している。一つ目は滝谷側を巻き、二つ目は直登して越える。三つ目、四つめには、巻くルートと、直登するルートの2つが付いており、後者の方が断然面白そうだったのでそっちに行く。パーメンは落ち着いて三点確保して登っている。ここまで来ると、もう直登というよりは、登攀していると表現した方が正確だろう。本当に山岳登攀している人たちからは怒られるかもしれないが。

みるみるうちに高度を稼ぐ。5つ目の岩峰はトラバースを繰り返しながら登っていく、いわゆるスイッチバックコースが設けられており、これが面白い。岩場がこんなにも面白いものだとは思わなかった。頭の高さ位にある石を片方の手で掴み、浮き石ではないかどうかの確認のために、一度左右に揺すってみる。OK。もう片方の手も別の石を同じように探る。さっきまで手を置いていた石に片足をかけ、ぐいとよじ登る。

岩は大体において鋭角的で冷たい。おおかた苔が生えている。生えていないきれいな岩も混じっていて、それは浮き石である事が多い。そんなのを見つけると、「大丈夫。まかせとけって。えいこの野郎。ふふふ、引き抜いてやった。うひ、ひひひ、うひひひひひひ」自分でも、自分の口元が緩み、目は吊り上がり、鼻息が荒くなっているのが分かる。浮き石を見つけると嬉しくなるのである。引き抜いた石は、転がり落ちないように、適当な窪地にそっと置いておく。

5つ目の岩峰を降りた所にある鞍部でピッチを置く。

ここで寿命の縮む思いをする。

鞍部の東側、涸沢側の谷には、まだ小さな雪渓が残っている。これを見たY川が、おもむろに雪渓に近寄り、止める間もなくその上に跳び乗ったのである。そして滑った。いかん。シャレになってない。雪渓は、急峻な谷沿いに涸沢ヒュッテまで続いているのだ。「テン場飛ばしだ」などと言っている場合ではない。止めなければ。と思い、私が一歩踏み出した時、奴は何とか自力で停止した。

余りの命知らずな行動に、叩き殺そうと思ったが、Y川の次の言動は素早かった。「雪でパンゼロやります。」とたんに戦意が萎えた。貴重なフィルムをなんて事に。

ここから涸沢岳への急登は、勾配が80度近い壁で、前進、というか上昇する時はすべて三点確保に頼らなくてはならない。その分高度を稼ぐのも早く、鞍部から30分でピークに着いた。ピークへあがる直前、ルンゼの中を10メートル程直登。

以上のコースを通過中、特に涸沢岳への登りの途中、多くのパーティーとすれ違った。1分に1回の割。所で、一体どの岩峰が涸沢槍だったのだろう。

涸沢岳からはO田がトップ。ここから先も岩稜帯ではあるが、よく踏まれている上傾斜も緩いので楽だ。10分で穂高岳山荘着。山荘のヘリポートの脇に出る。そろそろヘリが到着するらしく、砂塵防止のためヘリポートに散水している。なんてもったいない事を。

小屋のトイレは有料らしい。大変だ。

小屋は、稜線を平に造成し、その上に建てられている。規模は大きく、真新しい。盆休みの土曜だけあって、小屋前の広場はものすごい人だかりである。前穂高ピストンに出発。

奥穂のとりつきを入ってすぐの所に、はしごが2つ連続で取りつけられており、こいつが原因でのっけからかなり渋滞している。今7時から7時30分ごろが、ちょうど渋滞のピークに当たるらしい。

ここから先は、ザレた斜面をジグザグに登ってゆく。特に危険な所は無い。

奥穂は双児峰である。南側の峰が、国土地理院の三角点が置かれた本ピークである。ここは昼休みのスペイン広場並に混雑しており、ピッチを置く場所すら無かった。後でじっくり楽しむ事にして、前穂へと進む。

10分ほど行った所に、落差10メートル位の1枚岩を下りる鎖場がある。やや逆層気味なので進みにくいが、鎖の垂れているあたりにクラックが走っており、その中にホールドやスタンスがいっぱいあるのでそれを使うとよい。

ここも渋滞している。涸沢槍やキレットと比べ、来る人の数が圧倒的に多いためだろう。待たされる事も極めて多く、その間はジリジリと直射日光に焼かれながら立っているしかやる事が無い。

奥穂と前穂の間にある無数の鞍部のうち、標高が最も低いやつの所には、「最低鞍部」とのペイントがあり、ここで道が2分している。稜線をそのまま行くと前穂に直登することもできるが、聞いている詳細では極めて危険なルートらしい。予定通り、もうひとつの方、「紀美子平」方面へと向かう。

空は快晴、眼下は雲海、と、まるで天界にいるような光景である。雲からの反射が加わるためいつになく日差しは強く、肌があっという間に黒くなってゆく。顔と手足に日焼けどめを塗る。他のパーメンにも勧めたが、平気らしく、「必要ない」との事。羨ましい。

奥穂を飛ばしたら、次にピッチを置ける場所がなかなか見つからず、90分歩くはめになる。腹が減った。今日の行動食には、62生の方から頂いたカロリーメイトが入っていて、これにはずいぶんと助けられた。

紀美子平にも人が多かった。ここは傾斜地とはいえ、奥穂と前穂の間で唯一、落石、滑落の危険が無い所なので、皆ここで休憩をし、飯を作ったりなどしている。

ここからの急登がかなりやっかいで、ピークまで40分もかかってしまった。待ち時間が多いのだ。ここでの危険要素も落石である。O田のすぐ上を歩いていた同一のおばさんが、3度ばかし人の頭位のやつをラックさせ、O田はそのつど全身を硬直させていた。

前穂ピークにつく頃には、ガスがかなりわき上がってきており、視界がとぎれとぎれになっていた。それでもまだ空は青く、日差しは強い。雲海をバックに記念写真を撮る。

30分ほど休憩し、帰る。帰る直前、奥穂の稜線伝いに、クライマーが上がってくるのが見えた。

帰りは、皆早く帰りたがっているらしく、動きがやたらと早い。1時間20分で奥穂に着いてしまう。完全にガスに包まれており視界は無かったが、混雑は大分と解消され、ゆったりとピッチを置くことができる。ここが今合宿のラスト・オブ・ピークだと思うと寂しい。あと10個は登りたい所だ。誓約書を書いてアフターに行こうか。奥穂へ来る時見えた西穂への稜線は、とても難易度が高そうで、いかにも登りがいがありそうだ。ここにアフターするなんてオツかもしれん。

奥穂のピークは、標高が3190メートルあり、これは日本第3位の高さである。ところで、第2位の標高を持つ南アルプスの北岳は、標高3192メートル。つまり奥穂は、2メートル差で2位の座を逃しているのである。そこで、どこかの暇な連中が、高さ2メートルのケルンをピークにこしらえた。このために奥穂は、物理的には日本第2位の標高を持つようになった。ただし、国土地理院はこれを山の一部とみなしてはいないので、地図上での高さはあいかわらず日本第3位である・・・・という話を、森村誠一の小説で読んだのを思いだした。この部分はノンフィクションで、ケルンも実在する。この小説は、(ここからはフィクション)そのケルンの中に死体を埋め込んで隠し、完全犯罪をもくろむ、というストーリーだったが、実際見てみると、なるほどそれも可能だな、と思った。外周は、大人4人で抱えてあまりある位、そして高さは前述のように2メートル以上。人一人位なら充分に埋めてしまえるに違いない。

奥穂の下りで、三たび雷鳥を見る。「今晩のおかずにしよう」と言って近づいたら逃げられてしまった。

小屋脇の広場に戻ってきた。全員待機させ、小屋へテン場確保しに行く。ここのテン場の料金は、他と比べて高く、一人600円である。これは、本来ならば1回100円のトイレ使用料が含まれているからである。

テン場はヘリポートのすぐ脇に設けられている。よって、その日予定されているヘリの離発着がすべて終わってからでないとテントは張れない。したがって14時まで待って下さいとの事。今12時40分。待つ。フィルム4本目終了。5本目に入れ替える。

あいかわらず人が多い。ひとつ30人位の団体がその大部分を占め、大半は中高年である。

ジュースを売る売り子の声が、しつこい上、大きくよく通るものだから、うるさくてたまらない。もう分かったからやめて。今座っているベンチの前のテーブルでは、二人の男性がEPIで湯を沸かし、コーヒーを煎れ飲みくつろいでいる。これが何ともうまそうで、見ていて胃酸が出る。ここは鞍部なので周囲から風が吹き込む。そのためとても寒く、暖かいものに魅了されやすい。アンダーウェアを着る。

水を再び買う。ここは1リッター150円だ。融雪水だそうである。お腹の弱い人用にミネラルウォーターもある。500ミリリッターで350円だ。

この小屋は、今までに自分たちが訪れた他の小屋と比べ物価が高く、平均して20円から50円増しである。この立派な(皮肉でなく本当に)小屋の設備に投資した資金を回収するためか。外観とうらはらに台所事情が火の車なのか。それとも他の小屋の事を何も知らない登山者に目を付けた商売上手な奴なのか。まあいい。牛丼800円がうまそうで惹かれる。

13時40分にテン場へと移動する。が、H田の姿が見えない。奴はよく消えるのだ。呼べばいつもはただ単に死角にいるだけですぐ返事が返ってくるのだが、今回に限って返事が無い。全員で捜しに出る。私がテン場の裏手を捜し回って帰ってきたら、奴はいつの間にか戻ってきていた。

テン場を予約した時、ナンバーの書かれたプラスチック製の札を渡されたのだが、ナンバーに意味は無く、空いている所ならどこに張ってもよい。ほとんどのサイトは直径5センチから10センチの瓦礫の上に設定されており、テントマット越しにもごつごつ感が感じられる。広さは充分にあり窮屈することは無いが、個装のマットをテントマットとして供している自分は、恐らく今夜眠れないに違いない。テントのポール1本に亀裂が入る。

めしは15時30分からとする。しばらく自由。

小屋のトイレはとても清潔で、臭いが目にしみる〇〇のトイレとはえらい違いだ。それぞれの個室には、アイガー、マッターホルン、マナスル、キリマンジャロ、エベレスト、グランドジョラスといったネーミングが施されていてやる気が無くなる。

トイレ内で使い終わったトッペは、目の前の篭に捨てる。すでに山盛りに積まれていたりすると目を背けたくなるが、トイレと人間の体の構造上それはできない。これが唯一の難点である。

洗面所があり、大きな鏡がはめ込まれている。久しぶりに自分の顔を見た。水も出る。「この水は飲めません」と但し書きがしてあるが、小屋の水を買わせるための作戦ではないか、と、つい裏を掻いてみたくなる。

トイレの使用料、一人1回100円。宿泊者、幕営者は無料。

小屋の喫茶店で15時15分まで時間をつぶし、テントに戻る。H田が早くも食事の仕込み(乾燥野菜の復元)を行っていた。今日の飯は、米ひとり2.4合、肉全部、乾燥野菜はひとつかみを残して全部、そしてマロニーという内容。仕込みの段階で早くもコッフェルの5分の4位の体積にふくれ上がっていた。どうやって全部調理したのか不思議だが、何とか完成。あと、コンビーフとシーチキンのマヨネーズ和えが食器一杯分あった。これもどうやって胃に入ったのか不思議だが、平らげた。2年二人は死んでしまった。

いつになく長い食休みをとる。Y川の「生野菜が食べたい」というつぶやきを聞き入れ(自分も食いたかった)、小屋で、レモンジュースと、果汁100パーセントのオレンジジュースを買い、酒の肴に皆で回しのみする。

最後の夜は下ネタで大いに盛り上がった。あす下山である。

穂高岳山荘→涸沢ヒュッテ→横尾山荘→上高地

終日快晴

いよいよ下山日である。3000メートルの世界とも今日でお別れかと思うと悲しみで発狂しそうになる。何で降りなきゃならないんだ。まだ食糧もあるのに。パーメンも元気なのに。台風はどっか行っちゃったのに。3時30分起床。

テントを出ると、満天の星空が迎えてくれた。まだ外は真っ暗である。撤収中、H田が隣のテントを指さし、「ゆうべ、そこのテントからあえぎ声が聞こえてきましたね。」とつぶやく。

まだ寝静まっている周りのテントを尻目に、ザイテングラードを下降開始する。噂には「危険」と聞いていたが、おととい、昨日と数々の岩場を乗り越えてきたパーメンの敵ではないようだった。少々の三点確保や鎖場など全く意に介さず進んでゆく(しかも懐電行動)。逞しくなったものである。進行方向の空が、下の方から朱色に染まってゆく。思えば、空がとてもきれいな合宿であった。ピッチを置いた所で、曙をバックに写真を撮ってもらう。

空が朱色から薄い水色に変わる頃、涸沢ヒュッテが大分と大きく見えるようになった。そのとき聞き覚えのある声が聞こえた。「キャー」。パーメンに女はいない。誰だ。行く先を見ると、どうやら500メートル位先に見えているパーティーが声の主らしい。見覚えのあるサブザック。帽子。6人。緑色のユニフォーム。N岡。N岡のパーティーだ。さっきの声はF原さんだったのだ。キレットを越えたあたりから、日程的に考えると会えるのではないかと思っていたが、まさか実現するとは。嬉しいな。うちのパーメンは困惑し、というか恥ずかしがってか、「どっかに巻き道ありませんかね」「隠れられる岩は」「穂高に引き返そうか」などと言うている。確かに「ミッシー」などと呼ばれるのは(しかも女性から)久しぶりだろうから、戸惑うのも無理ないか。8日間黙々と縦走を続けてきた男6人が、彼&彼女らのテンションの高さに抱く印象は、田舎から上京してきたおのぼりさんが都会に対し抱くそれに近いものがある。

N岡のパーティーは、奥穂と涸沢にピストンをかける途中であった。入山してから日が浅いため、まだパーメンに活気が感じられ、うちとは対照的だ。きっとうちからは、活気よりも野生の底力のようなものが感じられたに違いない。H田は「シェルパだ」と言われて半分は嬉しそうだった。

8日間飲み続けたカルシウム錠剤の残りを差し入れる。お返しに「蒟蒻畑」をもらい、品物のレベルの違いにこっちの方がかえって恐縮した。ありがとう。八甲田でまた会おう。

彼らと別れ、先を急ぐ(みんな早く降りたがってペースは早かった)。涸沢ヒュッテでピッチを置く。水道をひねると水がいくらでもタダで使える世界に戻ってきたのだ。贅沢に洗顔する。

涸沢ヒュッテから先は、久しぶりの樹林帯である。次にピッチを置いた時、蒟蒻畑は一瞬でパーメンの胃袋に納まった。梓川の源流を渡る。ごうごうと流れる沢を見るのも久しぶりだ。

横尾山荘に着いた時、団体非常食を放出する。ここらへんからは、普通の観光地っぽい所である。酔っ払いやハイヒールを履いた女性など見ることができる。上高地まであと11キロメートル。O田はスピードを上げた。後で計算したら時速6キロで歩いていた。そんな自分たちを追い抜いていくイダテンもいる。彼(彼女(!))達は例外なく沢のぼりの格好をしている。沢の下山後は走るものなのか。Y川のしていることは実は業界標準だったのか・・・

徳沢園でピッチを置く。次が最後の1ピッチである。残りの行動食をすべて腹に納め、パーメンに「最後まで絶対に気を抜くな」と伝える。O田が、「行きまーす」と言う。この休憩中の会話はこの2言だけだったのだが、これが、このパーティーにおける休憩中の平均的な会話数である。ついに終いまでそれは変わらなかったか。まあいいや。

最後は、人混みの中を縫うようにして歩き、上高地のビジターセンターにザックダウン。下山連絡と下山ジュース買いの間に、リーポリを梓川に捨てる。「このいつまでたっても無くならないリーポリの重さが、俺の責任の重さだったのだ」と捨てながら思った。最後に一口飲んでみたら、明らかに味が変だ。こんなもので洗浄されたらたまったもんじゃないだろうな。一応煮沸してきたのに。

バスターミナルまでは、もう少し歩かなければならない。リーポリの分だけ軽くなったザックを背負い、私は歩き出した。

軽量化の効果

軽量化対策にどの程度の効果があったものか、と考えると、

  1. 味と栄養は損なわれているが、軽量化には相当効果がある。今後金に余裕があれば、栄養素は残るフリーズドライに取って変えてみてはどうだろうか。
  2. これでも相当軽くできる。酒の無い日は紅茶で歓談した。将来、水で戻せる酒なんて開発されないだろうか。また、Highになるのが目的であれば、酒にこだわらずドラッグでもいいような気がする。少量で効果があるし。うそだよ。
  3. 食品栄養成分表を見て色々な品を検討したのだが、カロリーメイトは偉大である。ずいぶんとコンパクト化できた。行動食より爆弾の方が一般に軽く済むが、穂高のように水の無いエリアでは多用できないため、行動食に頼らざるをえない。行動食の軽量化はけっこう功を奏したと思う。
  4. ほとんど気持ちの問題だが、塵も積もれば山となる。はずだ。
  5. これはこれでいいのだが、今回は結局夜1回もろうそくを使わなかったため、全部で1本で済んでしまった。パーティーの方針にもよるのだろうが、やり方次第(使い方次第)で大きく減量できる要素である。
  6. これも「塵も積もれば山となる」はずだ。
  7. 穂高以外では水場は豊富なのであまり問題は無い。穂高でも、金さえあれば水歩荷はあまり必要なく、行動中飲む分だけ持っていれば良い。青ポリだけでもいいかもしれない。
  8. 各パーメンに、このことについて各自よく吟味するよう指示しておけば、結構効果が上がる。
  9. つまみの量はある程度減らせたと思う。しかし金はかかる。

また、アクシデント対策の結果としては、

  1. ねじは30mm長がちょうど良い。接着剤は強度があり、かなり使える。アイガーは必ず壊れる。
  2. 気持ちの持ちようなのかもしれない。「俺はカルシウムを食ったから元気なはずなんだ」と思い込む精神的作用は大きいと思う。
  3. 多分2、3本は折れるだろうから、持っていて損はない。
  4. 普通の皮膚の強さの持ち主ならあまり必要ない。ぼくのように弱い人は必須。
  5. へつりの練習を重点的に。
  6. 台風の対処は、小屋に逃げ込む、下山するのいずれかだが、一旦下山すると非常に労力を要するし、気分的に盛り下がるので前者が良いだろう。北アとは、金さえあればどんな天候であろうと優雅に過ごせる所である。
  7. 1年はどう思ったのだろう。効果があったのかは疑問だ。
  8. 実際は強行軍してしまった。パーメンが異常に強かったので事なきを得た。

こんな所だ。

(最後まで読んで下さった方々に感謝を込めて) 平成10年3月 Leader

2001年 6月本文修正。2004年2月書式修正