奥多摩・倉沢集落(2004年9月)

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古来、炭焼きを生業とした山村集落。昭和30年代、石灰鉱山の社宅が造成され、最盛期は数十の家庭が暮らしていた。

その後、鉱山の衰退に伴い住民は離散。現在は、95歳のお爺さんが一人だけ暮らしている。つまり、たたずまいは廃村であるものの、れっきとした住宅街である。

我々が行った当日、某ゲームソフトメーカーが取材に来ていた。廃村が登場するゲームを今度作るんです。これはいい素材が撮れそうです!」と、彼らはやる気満々だったが、失礼なことおびただしい。


村は、山肌に貼り付くように軒を並べている。斜度20度はあろうか。家々を結ぶ往来は、ほぼすべてが坂道か、階段である。

村の歩道網は、おおざっぱに言うと、2本の階段(垂直方向)と、それと直角に交わる無数の小径(水平方向)から成っている。

垂直方向の段数は、約150。京都駅の大階段をイメージしていただくと分かりやすい。もし、集落の過疎化がここまで進行していなければ、大階段駆け上がり大会で、突出した功績を挙げたことだろう。(4人1チームが出場条件)

鍛えられる反面、老後はつらそうだ。雨の日や、酔っぱらってる時の通行も、気を遣っただろう。

また女性はさぞ苦労したのではと偲ばれる。


家屋は半壊のものが多い。一般的に、玄関側には良質の柱を使っていることが多いので、まだそれほど、崩壊は進んでいないのである。道路側に限って言えば、集落の面影を旅人に偲ばせるには、充分な貫禄だ。

玄関同様、トイレの柱も頑丈なことが多い。従って、周りは全部崩壊したのに、トイレだけポツンと取り残され、丸見えになってしまうことも考えられる。

トイレは、いつもキレイに掃除しとかないと、廃屋になった時はずかしい思いをするのである。


屋根には、雑草・樹木の若芽が密生している。天然のアジサイ株が絡みついた屋根とかもあって、さながら良くできた日本庭園のたたずまい。

写真では、周りは鬱蒼とした森のように写っているが、木々は、まだそれほど太くなく、樹齢は20年未満であろう。集落から人々が離散するに従い、入れ替わりにやってきた木々である。


大木が増えるに従い、より激しく、家屋を崩壊させてゆくことだろう。落ち葉による腐食や、倒木の影響が大きくなるからだ。やがてすべてが枯れ葉の下に埋まってしまう前に、この独特の空間の雰囲気と匂いを、我々は味わっておかねばなるまい。


村の人口は、最盛期で100人あまり。理髪店や病院などの生活インフラも整備され、ひととおりの生活臭がうかがえる。


もっとも、家屋内の調度品は、ほとんど残っていない。社宅撤収時にきちんと運び出したか、心ない廃墟マニアが持ち去ったか、風化して土に還ったか、鹿が食べたか、である。(野生の鹿は多い)

残っているのは、鹿の食指をあまりそそらない、古びた新聞紙などである。しかし人間にとっては、得るものも依然多い。

たとえば文化放送は、「カナ子は大学生」「わたしはメイコ」「夢見るユメ子さん」と、朝っぱらから色物で責めている。おおっぴらにエロを語れなかった昭和30年代だが、当時のディレクターは、先見の明があったのだろう。廃墟で学ぶ、文化放送の新たな一面。

しかし、会社のバイオグラフィーを確認すると、上記3番組は、いずれも無かったことにされている。


集落の少しはずれに、他の3倍はあろうかという、立派なお屋敷がある。村で唯一の、二階建て家屋である。

この村は社宅だったと聞いているが、きっとこの家に、ボスキャラがお住まいだったに違いない。


その家の押し入れに残っていたカレンダー。土曜日がお休みの色になっていないのが伺える。今の時代に産まれてよかったよ。

建国記念日も、まだないが、これは1966年12月に制定されたんで、多分印刷が間に合わなかったんだろう。

モデルの女の子は、既に何児かの母または祖母となっているのだろうか。


こんなモヤモヤがカメラに写ってしまうと、「元気にご活躍されていれば良いのだが」と、祈りに到達せずにはいられない。


そんな村でエキサイティングにキャンプするのだ。テントを設営する場所は何箇所もあるし、水場もあるので、泊まりも快適。

月明かりが、成長する大樹のこずえに隠れてしまう前に、皆さんもここで、ムーンライト・キャンプを楽しまれてみてはいかがでしょう。

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