2003年8月に行った、インドヒマラヤ・スピティ谷(Spiti, India)でのトレッキングの記録です。
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以下の書籍が参考となります。また、読んでいるうちに、スピティへの情熱が高まってきます。
1000年前から時間が止まった場所が、カラコルムの山奥にひっそり存在する。
「スピティ(Spiti)」「ザンスカール(Zanskar)」と呼ばれる、インド北部の国境地帯である。いにしえの文化をタイムカプセルのように封じこめ、秘境のなかの秘境、桃源郷のなかの桃源郷として、世界中のどこからやって来た旅行者にもカルチャーショックを与える魅力を持つ。
四方を5000m越の峰に囲まれ、今でも年の大半は、氷雪により下界から隔絶される。
地理上、他国による侵略が困難だったことと、1986年まで外国人の立ち入りが禁止されていたことが重なり、当時の生活様式が、近代文明に駆逐されることなく残っている。
発祥は、2000年前の、タタール(塔塔爾)族の遊牧民にまで溯る。人々はラマ教(チベット仏教)を崇拝し、粘土造りの家で、家畜の乳とわずかな穀物を糧に、悲しいほど素朴に暮らしている。
NHKの正月番組「天空の王国・インド・ザンスカール」で、その様子が放送され、正月酒で酔っぱらっていたが釘付けになった。さっそく、有休の言い訳を考えはじめる。
ザンスカールは、カシミヤで有名な、インドのジャンムー&カシミール(Jammu & Kshmir/JK)という州にある。パキスタンとの国境に近い。
本当はここに行きたかったが、ちょっと休暇が足りなかった。あまりに奥深いため、往復21日程度の連休が、最低でも必要なのである。
そこで、もう一方の「スピティ(Spiti)」に行くことにした。ここなら2週間+αで日本から往復できる。インドの行政区分では、ヒマチャル・プラデッシュ(Himachal Pradesh/HP)という州になる。
地形は、堆積と褶曲が創った準平原だ。
周囲360度、人智を越える景色にあふれ、空にはヒマラヤの峰々、大地には地層の紋様が顕わになって、旅行者を待っている。
山は、神話に登場する巨大生物のような、途方もない存在感を持つ。草木もなく、瓦礫で埋まっているが、露出した地層の褶曲が、有機物のようなイメージを抱かせる。
「ザンスカールで、ヒマラヤの広いことを知り、スピティで、ヒマラヤの美しいことを知る」と、深田久弥が大雪・トムラウシを評したように賞賛されている。
この景色は、日本では決して拝めない。どこにも存在しない。だから、予備知識なしで行ったとしても、あなたは深い感銘を受けるだろう。
色んなホームページで、ザンスカール、スピティの写真を見るにつれ、ますます行きたくてたまらなくなった。これらを廻りあぐねることを生涯の娯楽とし、何の不足もないだろうと確信した。一目惚れである。
この夏を、両思いへの礎とするのだ。
ヒマラヤの分水嶺がモンスーンの降雨をさえぎるため、スピティは、乾燥の著しい、壮絶な砂漠だ。
砂埃で、携帯電話やカメラはすぐ壊れ、フィルムは擦り傷だらけ。服や髪は、一日でゴワゴワになる。沢登り以上に、装備品のビニール袋での保護が欠かせない。
刺激で鼻毛はぐんぐん伸び、鼻クソも多量に出る。処理が、日課としてひそやかな楽しみになるだろう。
ハードコンタクトレンズでの登山は自殺行為だ。使い捨てソフトがいい。
植物は、氷河の伏流水の上にだけ自生している。といっても、雑草がちらばっている程度だ。陽射しで枯れてしまうのだ。何とか頑張って草原っぽくなった場所に、わずかな灌木が育ち、そこに村ができる。
流れの激しい川が多いので、ほとりでも植物が育たない場合が多い。飛騨高山の飛水峡を想像していただければよいだろう。川沿いはたいてい、延々と砂漠である。
ただ、ここ20年くらいは、政府による灌漑が盛んに行われており、雑木林も増えつつある。木漏れ日を浴びて歩ける日も来るかもしれない。
動物も少ない。居ても、山羊、馬、牛など、人が持ち込んだ家畜が大半だ。ただし運と洞察力があれば、野生のにも会えるだろう。
ニラの株に野ウサギ、松のウロにリス等が隠れている。
保護色で目立たないうえ警戒心が強いから、写真に撮るのは至難のわざだ。砂塵防止にカメラをビニールでくるんでいると、取り出すときのガサガサ音で、100%逃げられてしまう。
「写ルンです」のように壊れても惜しくないカメラか、水中カメラならチャンスを活かしやすい。
一番のレアキャラは、攻撃的な角をもつ大型の山羊「アイベックス(ibex)」という生き物だ。めったに見られないがかっこよく、軽やかに山肌を駆ける姿は、種の違いを飛び越えて惚れてしまう程とか。日頃の行いが悪かったせいか、会えずじまいに終わった。くそ。
意外なくらい山奥にまで、人が暮らしている。急斜面や濁流の中州、絶壁の窪みなどにも、たくましく民家が建ち並んでいて、根性の強さに驚く。
もちろん都市インフラは不充分か、存在しない。冬になれば陸路は雪で埋まり、耐えて春を待つほか、何もできなくなる。
私が訪れた夏の終わりの時期、人々は、急かされるように、一心不乱に働いていた。
大人は道路整備に農作業、炊事洗濯。子供は鬼ごっこにサッカー、兄弟の世話。西岸良平の描く昭和30年代のようであった。
人口は、スピティ全体で10万人を超えるというが、なにしろ険しく、集落も調査不能のところが多く、正確な数は、政府でさえ把握していない。
スピティは、長い間、西チベットのグゲやラダックの支配下にあったため、インドの影響を強く受けることがなく、ヒマチャル・プラデシュ州の中では最もチベット本土に近い雰囲気を持っている。
もてあます自然を求め、やってくる旅行者は多い。
サイクリング、ツーリング、ヒッチハイクと形態は様々で、年齢層も幅広い。…が、なぜか日本人は、出会う人みな、「教員」または「定年に達した方」であった。休暇2週間取りました、と話すと、いつも「会社お辞めになられたんですか?」と聞かれる始末である。
スペインからの家族連れ(お父さんは40代)とキャンプ場で話す機会があり、「夏休みどのくらいですか?」とお聞きしたら、「いやー、今年はたった1ヶ月しか取れなかったんですよ」(下線部にアクセント)と答えられ、目眩がした。
今回廻ったのは、ヒマチャル・プラデッシュ州(Himachal Pradesh)北~北東部の「ラホール(Lahaul)」から「スピティ(Spiti)」と呼ばれるエリアである。
ラホール・スピティへは、ナショナル・ハイウェイが敷設されており、ジープで移動できる(ドライブの様子/Nancy形式/0分28秒/970KB)。
キャンプ場とキャンプ場の間を、道具一式積んで移動するので、荷をかつぐ必要はまったくない。
トレッキングのときは、登山口まで車で乗りつけて、軽荷で歩き回る。水2リッター、行動食、カッパ(日除け用)、カメラ、行動食などだけ背負えばよい。
行動時間は、だいたい1日あたり4~7時間で、体力的には楽ちんである。老若男女に楽しめる。
「車で乗り付けられる場所なんて、大した景色じゃないでしょ」と疑問かもしれないが、そんなことはちっともない。
スピティは、舗装箇所は少ないものの、南アルプス林道が屁に見えるくらい、山奥まで道路網が敷かれているので、少なくとも、北ア最深部を訪ねた場合よりは、別世界に来たという印象を強く受けるだろう。
登山の難易度としては、たぶん高尾山か武田山より簡単だ。しかし、気圧が通常の6割足らずのため、脳みそが何となく、別世界に来たような感覚にとらわれる。
周囲にはもっと高い山がいっぱいそびえている。もしそんな場所に立ったら、一体どれくらい目眩がするのかな。
日本百名山クラスの山が、雨後のタケノコの密度で峰を連ねている。
一つ一つは、最低でも穂高岳なみの貫禄を備えているが、数が多すぎて、名前すら与えられていないピークが多い。
かっこいいピークを見かけ、「何て名前の山ですか?」とガイドさんに聞いても、「とくに名前は無いよ。取り立てて騒ぐほどの山じゃないから」という始末である。カルチャーショックだった。
の割に登山者は少なく、めったに人と会わない。キャンプ場には他のグループも居ることはいるが、せいぜい晩秋の聖岳の人口密度である。
トレッキングは、道さえ分かっていれば自力で歩くことも可能だが、恐らく分からないし、単独行だと山賊に襲われる危険もあるので、ガイドさんにエスコートしていただいた方が安全だ。
私がお世話になったのは、旅行会社"Marcopolo INDIA"の、Negiさんという方である。本業は登山学校の先生で、いかにも山男の風貌に、精悍な表情をいつも絶やさない方だった。白い歯はけして見せない。
高山植物や、チベット仏教の作法に精通しており、きっとファンの女性の数は、3桁は堅いだろう。
スピティの村々に、広い人脈を持ち、「もし道が決壊して車が通れなくなっても、即座にレスキュー隊を現地で組織し、人海戦術でお客を日程通り帰還させる実力がある」と、代理店の方はおっしゃっていた。
このような場合(わりと頻繁に起こる)でも割増料金を受け取らないぶん、はじめからやや高めの料金設定だそうである。
スピティの玄関口の街・マナリ(Manali)には、ラホール・スピティ地域のツアーを扱う代理店が軒を連ねているが、そのような緊急時における生還(?)の実績とかも、選考のポイントにしたほうがよいだろう。
キャンプは、河のほとりに設営する。天然の河原だが、近隣の村が管理しており、村人が毎日、料金を集めに来る。登山者用テント1張りにつき、50Rs/泊だ。添乗員用テントや炊事用テントは無料。この価格はヒマチャル・プラデッシュ州(Himachal Pradesh)で共通だ。
金とる割に、手入れは行き届いておらず、どこもゴミだらけである。
「自分のゴミは持ち帰る」とか「ポイ捨て厳禁」という文化は、まだ根付いていない。石油化学製品が普及して日が浅い地域なので仕方がない。
ゴミは、草むらに隠されて、ぱっと見た目ほとんど分からないから注意が必要だ。ガラスの破片が散らばった悪質なサイトもある。
気持ちよさそうな草原なので、つい裸足で散歩したくなるが、止めといた方がいい。サンダルを持って行くと便利です。
キャンプ場はたいてい、家畜のエサ場を兼ねている。牛・馬・羊・山羊、珍しい所ではブル(ヤクともいう。更に牛とかけ合わせると「ゾー」)などが、入れ替わり立ち替わりやってくる。強烈な体臭だ。テントの中まで漂ってくる。臭気が充満し、昼寝も目覚めてしまう。
テントのタープが、奴らの足で引っこ抜かれることがある。真夜中にそんな事態となると、「山賊の襲撃か?」と思って寿命が縮まってしまう。
家畜は食欲旺盛だ。牧草がぶちぶち食いちぎられる音が、いつも絶えない。外に食べ物を放置したら10分でなくなってしまう。手持ちのおやつの行方には気を配ろう。
逆に、残飯や調理くずの処理には便利である。飼い主も、それが分かっていてキャンプ場で放牧させる。壮絶な砂漠の中で、キャンプ場だけ草が生い茂っているのは、家畜によるリサイクル機構がうまく働いているせいである。Give & Take が必要なのだ。
当然、糞も多量に転がっている。でも空気が乾燥しているせいで、それほど臭くない。怖くない。
糞は、キャンプ場の緑地化はもとより、食物繊維と細胞壁を豊富に含むので、住民によって定期的に回収され、燃料として使用される。
薪となる灌木が少ないことに加え、積雪期でも常に採集できるから、糞は、貴重な資源である。氷点下20度まで下がる冬の暖房用として欠かせない。
雨はめったに降らないので、河原でテント張っていても、増水は特に心配ない。沢筋の土石流は怖いらしいが…
生活用水はどうするかというと、きれいな水が、至る所でこんこんと流れ出ていて、それを使う。氷河由来の伏流水が吹き出しているのだ。
ヒマラヤは氷河だらけだから、水は一年中、事欠かない。
とてもきれいな水なので、すくって飲んでみたくなるが、生は、旅行者にはきっと適さないだろう。現地の人は平気で飲んでいるし、美味そうなので残念である。
ミネラルウォーターは、車で移動している分には、特に不自由なく買える。心配せずガバガバ飲んで問題ない。途中たくさんある茶店(dhaba, 現地の言葉で「小さいレストラン」の意味)や、カザ(Kaza)の街で買える。1リッター10~15Rsくらいだ。車なら、ダースでまとめ買いがお得。
なお、キャンプ場の水場とは対照的に、谷の本流は、生コンクリートを流し込んだような濁流だ。氷河は基本的に万年雪なので、そのあいだずっと地盤をかじりつづけ、岩屑や砂粒をたっぷり含んでいるからだ。こんな所に転落したら、死体は泥人形になってしまって、きっと浮かばれまい。
飯は、旅行会社のツアーなら、何不自由なく食べさせていただけるはずだ。苦手な食材などを事前申告しておけば、幸せな数週間が送れるだろう。
個人旅行の場合は、時々現れる茶店で忘れず食っておこう。茶店は、日本の高速道路におけるSAくらいの頻度で設置されている。24時間営業じゃない点だけ気をつけてくれ。
日用品は、ある程度は茶店に在庫がある。カザ(Kaza)の街ならもっと確実だ。
石鹸、歯ブラシ、ひげそり、下着など、品質や、肌に合う合わないは別にして、だいたい見つかる。左手洗浄が主流の国だが、外国人旅行者のことを考慮してか、トイレットペーパーもちゃんとある。日本から多量に持ち込むこともない。
インドの巨大な歯ブラシ(左が日本製。右がインド製)とか、口の大きな人へ土産に買っていったら感謝されそうなので、現地で買いあさるのも楽しいだろう。値段は 12Rsだった。
トイレットペーパーは、肛門から煙が出かねない、強烈な香水付きのものが売られていて楽しい。会社のトイレにこっそり仕掛けて楽しむとか、使い道は多岐にわたりそうだ。
トッペは、他の日用品と比べ、相対的に高価だが、娯楽品と割り切れば腹も立たない。35Rsだった。
カメラのフィルム、電池、および医薬品は、マナリまで戻らないと入手が難しいので、日本で用意して行きましょう。
カザ(Kaza)に病院はあるが、正露丸やバファリンで済む話を、ジープに揺られてカザまで通院すると、かえって症状が悪化する可能性がある。
今回の行程を以下に示す。クリックすると別ウィンドウで拡大表示します。
行程 | 移動手段 |
---|---|
成田→ニューデリー | 飛行機(MH089 + MH190) |
ニューデリー→マナリ(Manali) | 乗用車(Desent Indo Tours Pvt. Ltd) |
マナリ(Manali)→タダルプー(Tadarupu) | ジープ(Marcopolo INDIA) |
タダルプー(Tadarupu)←→チャトル谷(Chhatru|Chhataru) | ジープ+トレッキング |
タダルプー(Tadarupu)→ラングリック(Rangrik) | ジープ |
ラングリック(Rangrik)→シチリン(Sichiling)←→タボ(Tabo) | ジープ |
シチリン(Sichiling)←→ダンカール湖(Dankar Lake) | ジープ+トレッキング |
シチリン(Sichiling)←→マニラン湖(Sapona Lake) | ジープ+トレッキング |
シチリン(Sichiling)→ラルーン(Lalung)→デマール(Demul)→ラングリック(Rangrik) | ジープ+トレッキング |
ラングリック(Rangrik)←→タンギュッド(Tangyud)←→パンシャン(Panshang) | ジープ+トレッキング |
ラングリック(Rangrik)←→キバール(Kibber)→アーチャ(Archa) | ジープ |
アーチャ(Archa)→チャンドラタール湖(Chandertaal Lake)→無名(?)のキャンプ場 | ジープ+トレッキング |
無名(?)のキャンプ場→マナリ(Manali) | ジープ |
マナリ(Manali)→ニューデリー | 乗用車(Desent Indo Tours Pvt. Ltd) |
ルートをすべて自力で立てるのは難しい。初めは「スピティ ツアー」「Spiti tour」などのキーワードで Google 検索し、しかるべきエージェントに頼った方がよいだろう。
エアリアマップとか出ているわけでもなく、地図は、紀伊國屋も八重洲ブックセンターも全部探したが、いちばん詳しいやつで、1/200,000 であった。等高線や登山道も引かれてはいない。マナリやデリーの書店でも同様であった。
なにしろ、パキスタン、チベットと隣接する国境地帯だから、地形自体、重要な軍事情報であって、最近までは、車道の載っている地図ですら公開されていなかった程である。
前述のとおり、外国人の入国が許可されたのも1986年からなので、「地球の歩き方」とかにも余り詳しく載っていない。
私は、恵比寿にあるワイルド・ナビゲーション社に、航空券・宿・現地ガイドの手配をお願いした(コースも見繕っていただいた)。
行程を決め、実際にチケット予約したのは、6月の上旬となった。帰りの便が厳しい予約待ちになり、これは7月の第2週に無事取れて、日程が確定した。
スピティの村・谷・山などの名前は、チベット語から派生したもがほとんどだが、それだと旅行者に分かりにくいので、英語で、発音を当て字にしたものが併記されていることがある。(こちらも参照)。
しかし、その綴りは、まったく統一が取れていない。「表記の揺れ」が激しいのだ。ガイドブックや看板ごとに、綴りがまちまちで、ネットでの検索がとても面倒臭い。
日本語での当て字も同様で、ホームページやパンフレットによって、まるで別の地名のように見えてしまう。ちょっと前まで、外務省が「ベトナム」を「ヴィエトナム」と表記していたのに似てる。
本ページの日本語表記 | 本ページの英語表記 in this page, spelt as | 目撃したその他の日本語表記 | 目撃したその他の英語表記 also spelt as |
---|---|---|---|
アーチャ | Archa | ||
ヴァシスト | Vashisht | バシスト | |
カザ | Kaza | カジャ | |
キー | Ki | キ | Kyi |
キーゴンパ | Ki Gompa | キ・ゴンパ | Kyi Gompa |
キーロン | Keylong | ケイロン | |
キバール | Kibber | キッバル | Kiber |
クルー | Kullu | クル | |
クンザン | Kunzan | クンザム, クンズン, クンズム | Kunzum, Kunzam, Kunjum |
クンザン峠 | Kunzan pass | クンザム・ラ, クンズン・ラ, クンズム・ラ | Kunzum pass, Kunzam pass, Kunjum pass, Kunzum la, Kunzam la, Kunjum la |
シチリン | Sichiling | ||
シムラ | Shimla | ||
スピティ | Spiti | ||
スムリン | Sumling | ||
タダルプー | Tadarupu | タダルプ, タダル・プー, ラダルプー | |
タボ | Tabo | Tapho | |
ダンカール | Dankar | ダンカル | Dhankar |
タンギュッド | Tangyud | タンギュート, タンギュット, タンギュード, タンギュ | Tangud |
チャウチャウカンニルダ | Chau Chau Kang Nilda | ||
チャトル | Chattru | チャトルー, チャタル, チャタルー | Chhataru, Chhatru |
チャンドラ | Chandra | ||
チャンドラタール | Chandertaal | Chandratal, Chander Tal | |
デマール | Demul | デムール | |
ニューデリー | New Delhi | ||
バタール | Batal | バタル | |
パンシャン | Panshang | ||
ヒマチャル・プラデッシュ | Himachal Pradesh | ヒマーチャル・プラデシュ | |
ピンジョア | Pinjore | ||
マナリ | Manali | ||
マニラン湖 | Sapona | ||
マネ | Mane | ||
マネ村(上マネ) | Manegonna | ||
マネ村(下マネ) | Maneyomma | ||
マリー | Marrhi | ||
マンディ | Mandi | ||
ラホール | Lahaul | ||
ラルーン | Lalung | ラルン | |
ラングリック | Rangrik | ||
ランザ | Langza | ||
リンティ | Lingti | ||
レー | Leh | ||
ローザ | Losar | ローサル, ロサル | |
ロータン | Rohtang | ロタン | |
ロータン峠 | Rohtang pass | ロタン・ラ | Rohtang la |
8月1日の成田空港。人混みが目立つ。
めったに来ないので、混んでる方なのか空いてる方なのか分からないが、スーツ姿は少なく、バックパック姿、キャミソール姿の若者が大半だ。きっと今日から夏休みなのだろう。笑顔の連中が多い。
かつては私もそうだったかな、と4年前の今日、5年前の今日、6年前の今日…、を順に思い出してみる。
山を眼前にした緊張で瞳孔が開いていた自分の姿が、鮮明によみがえってきた。
もう就職しちゃったけど、いずれ今日の日もいわんやだろう。
今日は、C81ゲート発だ。ニューデリー(New Delhi)への直行便はチケットが取れなかったので、マレーシアのクアラルンプール(Kuala Lumpur International Airport/KLIA)経由の便を使うこととなっている。
搭乗口付近には、100円入れるとネット(Webブラウズ)できるキオスク端末や、天丼が1300円もする食堂などがある。ここではまだ携帯が通じるので、Webも必要なく、「エイズにご用心!」というポスターを眺めたりして出発時刻を待つ。
クアラルンプールまでは、マレーシア航空(MH089)利用で、機はB777-200。エコノミークラスも全席、液晶テレビつきだった。映画観たり、スーパーファミコンに興じたりできる。もちろん乗り物酔いにかかるので、程々で中断しなければならない。…筈だったが、「ゼルダの伝説」を6時間プレイしてしまった。乗務員のアナウンス中は画面がフリーズし音声も停まるので、安心して熱中してしまうのだ。
機内は、チルドのように寒かった。カッパ着て毛布かぶって丁度いいくらいだった。まずい具合に、登山靴のまま乗ってしまったので、なおさら血行が悪くなって困った。エコノミークラス症候群まっしぐらの陽気だ。スリッパの持ち込みを推奨。
キャビン・アテンダントが配ってくれたおしぼりは、小林製薬の芳香剤の匂いがした。国際線はどうしていつもこうなのだろう。トイレを思い出すから、食前に使う気になれない。
機内食は、茶蕎麦と、鶏の酢のものが出た。酒は、日本酒と焼酎以外だいたい不自由しない品揃えだった。
まだ明るいうちに、マレーシアのクアラルンプール国際空港(Kuala Lumpur International Airport/KLIA)に到着する。とても長い滑走路が、海外に降りたったことを実感させる。
「マレーシアは日本より狭いじゃないか」という野暮は却下。
1998年6月にできたばかりでピカピカだ。マレーシアらしく、建物の中に森が生い茂る(設計時のコンセプト)前衛的なデザインが印象深い。
森を中心に、放射状に通路が延びていて、道に迷う心配は少ない。乗り換えは簡単だ。案内板のうち、重要なものには日本語も併記されていて、ポイント高い。
ここで、ニューデリー(New Delhi)行きの便(MH190)にトランジット(乗り換え)する。待ち時間が1時間半だけだったので、酒を飲むには短く、たぶんまた機内食が出るだろうから飯も食わず、本屋で立ち読みしたりして過ごす。インターネットカフェもある。
空港内は、諸物価、高かった。コインロッカー(あんまり使わないだろうけど)が2時間で5RM(約150円)、インターネットカフェは、「最低2時間30分からのご利用」しかできず、これで30RM(約900円)も取られた。
商売熱心な土産物屋が多く、香水屋や宝石屋の店員が、しきりにキャッチセールスしてくる。「マレーシアは香水が名物なんだろうか」と考えるが、よしんばそうだったとしても、名物と言ってよい品質かどうか判断するスキルを持ち合わせてないと気づき、悔しくなった。
してみると私は、別に香水に限らず、自信を持って土産を買えるほど(人に推奨できるほど)、何かの分野に精通しているだろうか。いや、ない。もっと五感を肥やしていかなければ。
ここまでは日本人の姿も多かったが、MH190の搭乗口では、東洋系は自分一人だった。そういや一人で海外来るの初めてだったな。何となく股をひきしめてベンチに腰掛ける。
定刻より20分遅れて離陸。
途中、フライトアテンダントが入国申告書(disembarkation card)を配りにくるから、もらって記入する。カードは、上下が切り離せるようになっていて、上半分は入国審査官に。下半分は、税関に渡すようになっている。
パスポート番号/ビザ番号を記入する欄がある。機内で(人のいるところで)パスポートを出し入れするのはセキュリティ上まずいので、番号は、事前にメモ帳に書き写しておくと便利だ。万一、盗難に遭った場合も役に立つ。
予想通り機内食が出た。これから2週間食べ続けることになる、インド名物「カレー」であった。しかし、いま思い返すと、このカレーが旅行中一番まずかったなあ。
酒もあったが、何度催促しても持ってきてくれなかった。隣の席の、ターバン巻いた恰幅の良いおっちゃんには、何杯も運んできてるのに、である。腑に落ちない。ナメられているのだろうか。わなわな震えながら、インディラガンジー国際空港(Indira Gandhi International Airport/DEL)までの5時間を過ごす。
インドは既に夜のとばり。着陸直前に、機内が消灯され、ニューデリー(New Delhi)の夜景が窓一面に映った。客からどよめきが上がる。皆、子供のように、座席から身を乗り出す。私ももちろん乗り出した。普段はなるべく、通路側の席にしているが、今日はたまたま満席で、窓側を割り当てられていたので、夜景がよく見えた。マレーシア航空に感謝する。酒の件は許してやるか。
白熱灯だけのシンプルな夜景で、大都市のネオンのような、けばけばしさは無い。だが、規則正しい光の筋が、びっしり敷き詰められ、幾何学的な美しさはどこもかなわないだろう。
同心円と放射線から成るニューデリー市街地が、宇宙ステーションのように、大地に浮いている。動脈写真の血球のように、大地が拍動でみなぎっている。高度が下がるに従い、光源のひとつひとつ識別できるようになり、それは、人間くさく動き回る、自家用車やオートリクシャであった。ドライバーの顔まで見分けることができた。
この光の洪水に向かって、機は徐々に高度を下げてゆく。感動的オープニングである。
飛行機を出ると、ニューデリー(New Delhi)は夜(21:05)なのにムッと暑い。これもまた、異国を感じる。
インドの玄関口・インディラガンジー国際空港(Indira Gandhi International Airport/DEL)は、殺風景だが、行先表示などは分かりやすく、迷いはしない。蚊がいることと、預けた荷物が出てくるのに40分かかることが欠点だ。荷物を待っているスキに両替をすます。両替所は、荷物が出るコンベアからダッシュで20秒の所にある。
荷物を回収し、税関を通過する。ここで、機内で書いた入国申請書の下半分を提出する。
税関を出ると、プリペイドタクシーや列車予約用のカウンターが建ち並ぶ一角があって、旅行代理店の担当者が、送迎の人垣をつくっている。人口密度が高いので、もしここで待ち合わせるなら、服の色とかも伝えておくと確実だろう。ハチ公前なみだ。T字路になっており、右手の階段から空港の外に出られる。
階段の下も歓迎の人だかりだが、なれなれしさは上と桁違いだ。ここには、警備員もおらず、誰でも入ってこれるのだ。「今夜の宿はOKか? ここからタクシー付きで、良いとこ紹介するぜ」とか、「ドゥユーライクレディー?」と買春をそそのかす輩とか、いろいろ居やがる。
現地の旅行代理店(Desent Indo Tours Pvt. Ltd)の方と、ここで待ち合わせになっていたので、見つけないといけない訳だが、はてさて、誰が善人で誰が悪人か区別が付かない。うっかりしてると殺される。
携帯電話が前提の待ち合わせに慣れすぎた私には、早くも大きな試練だ。
幸運にも、先方が私を発見してくださった。「笠井サーン、どこ行くの?」と、流暢な日本語である。地獄に仏。
体臭のたちこめる乗用車が出迎えに来ていた。どのくらいの匂いかというと、座席に染みついた匂い成分がジャージ越しに浸透してきて、肛門が痒くなる程度だ。観念して乗り込み、ニューデリー市内のホテルに移動する。
インドは左側通行だ。運転マナーは良い。エジプトとかと違い、信号は守られ、車線変更時には、律儀にウィンカーも出される。
遅い車を追い越す時は、パッシングまたはクラクションを行うのがむしろ良いマナーらしく、トラックの背面には、だいたい決まり文句で"BLOW HORN (Use dipper at night)"と書かれている。
夜で景色が分かりにくいこともあって、こうして車の後部座席で揺られていると、日本でいっぺん通った道を走っているかのようなデジャビュに見舞われる。
しかし、路上に牛の姿が見えて、「ああ、インドなんだな」と現実に戻る。肋骨の浮き出た痩せ細った牛が、マイペースで闊歩し、道のあっちこっちを占領している。白と茶色が多い。
牛は、街路樹の影からヌッと現れることもあって、たまに急ブレーキを余儀なくされる。とても止まれる車間距離に見えないから、頭を抱え、「山でなくここで死ぬのか」と心中叫ぶ。ある筈のないブレーキを無意識に踏み込んで、左足がつっぱる。旅行中、何度繰り返したか分からない。帰国後も何となく、左足に筋肉痛が残ったのは、このためだろうか。
牛は、インドでは、ヒンドゥ教における創造と破壊の神・シヴァの乗り物と考えられている。聖なる動物として、誰からも大切に扱われている。だから、交通の邪魔だからといって、車のバンパーでこづいたり、潰してスキヤキにしたりはできないのである。(若干の轢死体も見かけるけど)
途中、左後輪がパンクし、その場でスペアタイヤに交換することとなった。「幸先悪いなー」と思ったが、インドではパンクなどトラブルのうちに入らぬ、という事は、まだ知らない。
約1時間で、ホテル着。今夜は、私の年収と不釣り合いな五つ星ホテル"Le MERIDIEN"に泊まる。日本の「グランパシフィックメリディアン」と同系列のホテルだ。
マトリックスに出てきた「ザイオン」みたいな、どこかしらやり過ぎの内装だったが、さすがに高級なオーラが吹き出していた。ロビーはハイカラさんで溢れ、正装のドアボーイ、ポーターが直立不動でぞろぞろ待ちかまえている。
私は、カッパにジャージ、サンダル履き、背にザックという少林サッカーみたいな格好だったので、股間が縮み上がった。
ムードたっぷりのバーなど、テナントも十数軒入っている。どれも高そうだ。ちょうど叶姉妹のような女性二人連れが入っていくのが見えて、魔がさしかかったが、翌朝は5:30amに出発との指示だったので、まっすぐ部屋に向かうことにした。上の階へのエレベーターは、噴水の中から発進するというかっこいい構造だ。
すこぶる豪華な部屋(なぜかツインルーム)をしばらく堪能し、日本のセブンイレブンで買った白菜の浅漬けを食べて、寝た。部屋の備品のうち、水ペットボトル2リッターと、タオル・石鹸は無料だった。しかし、日本だと場末の安いラブホテルでさえ置いてある「ひげ剃り」「歯ブラシ」は、無かった。文化の違いだろうか。
寒いくらいにエアコンが効いていたので、しめっぽいままだったシュラフを、ソファーの上にのべて干しておく。寮の薄汚い自室で三日三晩かけても乾かなかったものが、瞬時で乾いた。
翌朝は、携帯電話の「自動電源ON機能」で起床。ついでに、電波の出ない「セルフモード」に切り替えた。もともと心臓ペースメーカー等に配慮して付けられた機能だが、バッテリー節約の面から、海外旅行でも利用価値は高い。
ロビーの脇にあるビュッフェまで降りて、朝飯をたべる。まだ客は私一人だったため、ウェイター2名つきっきりとなった。目玉焼きもコーヒーも、頼むとすぐ持ってきてくれる。空いた皿はすぐに下げられる。かえっておちつかない。
ひととおり食べ、マップケースの行程表を確認していると、ウェイターさんが、朝っぱらから深刻な相談を持ちかけてくる。
「24歳にもなって、こんな人にこき使われる生活はこりごりだ。日本に行って、ホテルマンのバイトしながら日本語を勉強したいんだが、どうすれば良いか?」
決起すべきか迷ってるとの事。コーヒー呑みながら、「日本は、独身だとそこそこ稼げるけど、養育費が高いから、扶養家族が多いと大変だ。だから、あなたが独身なら、ためらわず行って、裸一貫で稼ぐといい。さもなくば老後の趣味とするのが安全だ」と答える。適切だっただろうか。
もう一人のウェイターさんは、「君は用意周到だから、きっとこれから先の交通機関もバッチリ予約してるだろう。だけど、私の知り合いが経営する旅行会社も、懇切丁寧がモットー。お勧めだよ。ちょっと話を聞いてみないか?」と、営業に余念がない。
5:30。ホテルの玄関に、白いTOYOTA QUALIS(5人乗り)が迎えに来る。ドライバーさんと、昨夜のガイドさんと共に乗り込む。外は小雨で、空は薄明るい。下町のゴミ山を俊敏に抜け、入山点の街・マナリ(Manali)へ向かう。
マナリは、ニューデリー(New Delhi)から約560kmの距離である。
ヘアピンの連続する山道や、未舗装の道路も多いため、見積もり所要時間は、ホテルのウェイターさんの話では9時間。ガイドさんの話では12時間だった。
南アルプス林道のような道を通って、東京から神戸へ行く感じ、といったら、どんなドライブか想像していただけるだろうか。結局、めし休憩2回を含め、14時間を要した。
車中では、ほとんど寝てばかりで、どこをどう通ったか定かでない。
途中、ハリヤーナ州(Haryana/HR)とヒマチャルプラデッシュ州(Himachal Pradesh/HP)の州境で通行税を支払い、めし休憩を2回、州境近くのピンジョア(Pinjore)と、マンディ(Mandi)で食べたことしか覚えていない。
通行税は、いま乗っているような営利目的の車(日本でいうと緑ナンバー)に対してのみ課税される。確か100Rs/1台だったな。めしは、地元の人も来てるふつうの定食屋で、1食40Rs程度。
窓の外には動物が多く、牛、馬、豚、鶏、スカンクなどがよく視界に入る。牛肉は、ヒンドゥ教では御法度だが、牛乳の搾取用に飼っているそうだ。寝耳にはひたすら、動物の鳴き声と、豪快な川の音が流れてくる。
デリー州を離れると、未舗装の道路がグンと増え、歯を食いしばってないと舌を噛むこともしばしば。
この車も、途中の村・クルー(Kullu)を過ぎた付近で左前輪がパンク。道ばたの修理屋に駆け込んだ。インフラといっていいくらい、いたる所で営業している。修理代は、被害状況にもよるが、50Rs/1箇所~が相場だ。
修理費は安いが、車の燃料はけっこう高い。途中で重油を補給し、19.17Rs/リッターだった。満タンにすると、低所得層の月収の2/3に達してしまう。贅沢な乗り物なわけだ。
村をいくつもいくつも通過し、空が薄暗くなった頃、クルー(Kullu)渓谷の底の街・マナリ(Manali)に着いた。
「マナリ」は、ヒンドゥ教の創造神「マヌ神」にちなんでつけられた名で、その神を祀る「マヌ寺(Manu temple)」が、村はずれの小高い丘に建てられている。
この寺は、ヒンドゥ教の聖地のひとつである。そのため、インドはもとより、周辺各国から、多くのヒンドゥ教徒が礼拝にやって来る。
ゆえにマナリは、日本でいうと京都のように、プチ人種のるつぼの相を呈している。
車窓から見た目抜き通りには、西洋系の旅行者、バックパッカーがとくに多い。宗教的聖地であると同時に、観光地でもあるのだ。
目抜き通り終端のロータリーを右手に入り、林の小径を川(Beas River)に向かって下りる。橋を渡り左折。1kmくらい川の左岸を走ると、右手に、ヴァシスト村(Vashisht)への分岐が見える。
分岐してすぐ上り坂となり、道なりに右カーブ→左カーブのヘアピンを登っていく。登りきったところが、今夜の宿・「風来坊」(現地名 "HIMALAYAN HAWA ASHRAM")への入口だ。ここで車を降りる。
田んぼのあぜ道のような生活道を、いま登ってきた谷の方向に少し降り、約2分歩く。歩道には所々、穴が開いていて、簡単に捻挫するので、懐中電灯使った方がいい。
風来坊は、旅行会社"Marcopolo India"の事務所も兼ねている。経営者ご夫婦は日本人で、英会話に疲れた胃と心臓に心地よい。食堂の暖炉の上に和凧が飾られており、それが尚さら安心感をそそる。この夜は、自家製野菜と漬け物(山菜と唐辛子)、それに加えインドでは貴重な瓶ビールを飲み、心地よく寝た。
夜半、ときどき停電した。頻繁に起きるので、もしパソコンを持ってくるのなら、ノート型が確実である。風呂や便所に行くときは、タオルと一緒にヘッドランプを忘れずに…
雀らしき鳥の鳴き声と、蝉しぐれで目を覚ます。
川面からわきあがる朝霧が、渓谷の街・マナリにたっぷりたちこめ、涼しい朝だ。宿の庭で赤く色づいたリンゴ(マナリの観光資源の一つ)から、なんとなく酸っぱい味がしそうな朝露がしたたり落ちている。
山に入ったら野菜が食えなくなると思って、朝飯は、みそ汁に入っていたネギの破片も、前歯で小刻みにして丹念に味わっておく。
朝飯は、みそ汁と、ザンスカール風パンケーキ(「風来坊」のコックさんはザンスカールご出身)が出た。スキー場とかでよく売ってる「味噌パン」を彷彿とさせ、食が進む。
さらにマナリは、近くのロータン峠(Rohtang pass)で収穫した木イチゴが有名で、これから作ったジャムをパンケーキに塗りたくってみそ汁をすすると、うまい。ジャムも大人の味になる。
9:00に、旅行会社"Marcopolo India"の添乗スタッフ3名がいらっしゃった。これから先、マナリ~スピティの11日間、お世話になりっぱなしとなる。皆さん英語は達者である。
冒頭でもご紹介した、登山ガイドのNegi(ネギ)氏。ネパールの登山学校の先生が本業である。
敬虔で、ゴンパ(Monestry, チベット仏教のお寺)を見学する際の作法「五体投地」など、いろいろ教えていただけた。氏が一緒でなかったら、ダライ・ラマに対する不敬罪で捕まっていただろう。
インドでは、橋田壽賀子ドラマのヒンディー語版が放送されていて、いっぺんNegiさんと、それについての話題になったことがあった。
私が、「嫁姑のドラマは、インドでもウケるんでしょうか」と尋ねたら、精悍だったNegiさんは、急に表情が曇り、「日本でも嫁姑は社会問題なのか。うん。インドも同じだよ。インドも…」と、ため息混じりになってしまった。
「日本には『みのもんた』が居ます。きっと救世主は現れますよ」とフォローしたが、適切だっただろうか。
コックのAngchuk(アンチョック)氏。ザンスカールご出身で、「なんでも作れる、地元ナンバーワン・コック」の名声をほしいままにする。
実際、出てきた料理はすべておいしくて、味蕾は大満足。
コックとして働くのは、夏の観光シーズンのみだそうである。「インドでは、年間フルタイムのコックは職業として需要がなく、なかなかやっていけない」とぼやいてらした。
夏だけといわず、冬の鍋料理なども作っていただけたらなー、と切に思う。
いつも、故郷ザンスカールの歌を口ずさみ鍋をふるう。その姿は、スピティ登山のキャンプの光景として、とても似つかわしく、「牧歌的」という言葉そのものである。
ドライバーのGokal(ゴッカル)氏。凄腕ドライバー。
スピティの道路は、思わずぞっとする崖っぷちに敷設されているものが多い。そのうえガードレールは無く、未舗装で、道幅は狭く、ダンプカーとのすれ違いもしばしば。たまに沢から土石流も襲ってくる。心臓に悪い条件ばかり揃っているが、そこを飄々と運転する。
酒は何でもあるだけイケて、テント撤収時、毎日のように、空のウィスキーボトルが脇に転がっていた。
富士山などで試すと分かるが、標高4000mのような高所では、酔いが回るのが非常に早い。酒というより、薬を盛られるような感覚である。素人にはお勧めできない。
それを毎晩、平然とやってのける。そして翌朝、ハンドルさばきは乱れない。ナメック星人なみの再生力の肝臓が、装備されているのだろうか。
挨拶も自己紹介もそこそこに、さっそく出発する。
スズキジムニーの屋根いっぱいにキャンプ用品を載せ、まずロータン峠(Rohtang pass)に向かう。
道路は、広葉樹と滝の飛沫をくぐりながら蛇行し、じわじわ高度を上げてゆく。じきに、マナリの家々は豆粒のようになる。急カーブが続き、ガードレールは無い。路肩から転落したら絶対に助からないので、よく、スピード出し過ぎ警告の看板が立てられているのだが、警告文がひとつひとつ違う。
インドでは、まだ道路標識は手書きが多く、製作は手間暇かかりそうだが、その分とことん凝れて、楽しそうである。日本における、「この付近、美人多し。スピード注意」に相当する。
そのほか路傍には、ジュースやお菓子を売る小さな店、ウールのコート屋、チャイが飲める掘っ立て小屋などが建ち並んでいる。
とくに厳密な行動スケジュールがある訳でもないので、喉が渇いたり、腹が減ったり、トイレに行きたくなったり、写真を撮りたくなったら、どこでもGokalさんに声をかけ、車を止めてもらうことができる。
"Feel free to stop the car, or you will lose valuable opportunity."とのNegiさんのお達しである。お言葉に甘え、道ばたのブルー・ポピーを撮影しまくった。
ポピー(ケシ)は、当然麻薬の原料になるので、採集するインド人が増え、絶滅の危機に瀕している。撮るなら今のうち。(取っちゃダメよ)
斜面の中腹・標高3390mのマリー(Marhi)という所に、ドライブインがある。カザ(Kaza)やレー(Leh)に向かう路線バスも、ここでトイレ休憩となっており、いつも客足が絶えない。我々も休憩する。喫茶店のひとつに入り、暖かいチャイを飲んだ。一杯4Rs。気づくと既に、北岳より高い場所だから、ラクダ着て、暖かいチャイが心地よい。でもまだまだ標高は上がるのだ。
ちなみに、マナリ(Manali)発のバスは、ここまでで175Rs。カザ(Kaza)までなら、エアコンなし便が500Rs、エアコン付き便が700Rsと書かれていた。
更にスイッチバックを繰り返し、11:30にロータン峠(Rohtang pass, 3900m)着。クルー(Kullu)渓谷の源頭である。大雨になっていた。モンスーンの大雨も、この峠は越すことができず、ここで湿気を八割がた吐き出してしまう。
ここもドライブインがあるが、建物は、煉瓦と布でつくったテントであった。しかし、チャイの心地よさと、一緒に食べるトースト、オムレツ、豆のカレーのおいしさは変わらない。
ここから先は、商店・茶店の建物は、テントを柱と粘土で補強したような、簡易な物が多くなる。冬が近づいたら撤収するのである。ロータン峠から北側に下りきったグランポー(Gramphoo, 3200m)、そこから17km東のチャトル(Chattru | Chhataru, 3560m)の茶店も同様だ。
チャトルの茶店は、チャンドラ川(Chandra River)を左岸から右岸に渡る橋を越えた所にあり、13:55着。2つのテントを器用に結合して造ってある。西洋人のサイクリングツアーのグループ8名が、はしゃぎながらカレーを食べていた。私も、はしゃぎながらチャパティと野菜カレーを食べる。
カレーの辛さは、具によってある程度決まったものを使うとの事で、「豆カレーは辛いか、すごく辛い。野菜カレーは少し甘いがクセが強い」らしい。
何にしても、食べ終わるたびに、少しずつ鍋から取って皿に盛ってくれる。これはインドで共通なのかな。ニューデリーでもそうだった。満腹ならそこでノーサンキューと言えばよい。
和風旅館のように、ハナから食いきれない量を盛りつけてくれるより、胃に優しくていい感じだ。
チャトル(Chattru | Chhataru)の茶店から10分で、タダルプー(Tadarupu)のキャンプ場だ。北アルプスの雲ノ平を、標高6000mのやまなみで囲ったような地形。
今は、それらの剣先をつなげるように、雲が全天を覆っている。ただし、雨は小雨に変わっていた。
Negiさんたちは、素早く車から荷を下ろし、テントを設営する。
全員一緒のテントを使うのかと思っていたら、私一人寝るために専用のテントを立ててくれた。それも六人用のやつである。
テント設営や食事の準備をお手伝いしようと思ったら、「君はお客さんなんだからどっしり構えていればいい」となだめられた。
要するに、車を降りたら、後は好きなだけ景色を眺めたり、写真を撮ったり、近所の人たちと世間話をしたりして、腹が減ったら飯を食べて、食後に昼寝。起きたらチャイを運んできてくれる。出発の時間になったら自動的にテントをたたんでくれる。
すげえ上げ膳据え膳である。本当にかえって落ち着かない。どうしよう。
まったく体を動かさなくて良かったのに加え、さっきから食べてばかりだったから、晩飯の時間になってもそれほど空腹感はなかった。しかし、締めてから間もない鶏の唐揚げはうまかった。するするおなかに入ってしまう。
続いてAngchukさんは、鶏の残り脂で紫タマネギとトマトを炒め、ターメリックとチリペッパーで味を調えニンニクを添える。そこに刻んだオクラを投入した。これは極めて旨い。
そして、マッシュルームスープにコリアンダーを加えた、クセは強いが安眠効果がありそうな飲み物で食事は締めくくられた。これも筆舌に尽くしがたい。
食後はもちろんチャイである。飲み過ぎると確実に糖尿病まっしぐらなので、ほどほどで我慢しなければならない… はずだったが、このときはまだ甘い物に飢えており、お代わりしてしまった。
一日中にわか雨であった。しかし、今日は生まれて初めて、標高4000mを超す日なので、そんなのはどこ吹く風である。
チャトル谷(Chattru | Chhataru)を、標高4000m付近にある小ピーク
6:00起床。起床といっても、学生時代のワンゲルのように戦争じみてはいない。
まず、Angchukさんの「チャイっすよー」という一声で目を覚ます。テントの前までチャイを運んできて下さるのである。これを、シュラフから半身だけ出して飲みながら、徐々に起きる。
テントの入口を全開し、ヒマラヤの冷たい空気を入れる。うつぶせのままカップを手に取り、チャイを吹き冷ます。鼻を包むチャイの湯気が、朝霧と混気し、まるで、雪山で暖房をガンガン効かせてビールを飲むような贅沢感を演出する。目線の高さに、牧草の朝露が光っている。谷全体が、朝日に輝き出す。
どんなふさぎ込んだ人生を送っていたとしても、生きているって素晴らしい、と、感激を噛みしめられるだろう。
7:00から朝食。トースト3枚に、オムレツ卵2個分、甘い味のおかゆ茶碗2杯、加えて再びチャイが出される。胃が膨張するが、すこぶるうまい。
腹がこなれてきた7:45に、NegiさんとGokalさんの3人で、チャトル(Chattru | Chhataru)の茶店にまず車で向かう。
茶店から徒歩で東に10分くらいの所に、チャトル谷を渡る橋が架かっている。この袂から、チャトル谷を登る、踏み跡のような道が延びている。
元々、牧畜を上手の牧草地に誘導するために造られた道である。
標高の高い場所の方が、谷間と比べ草が多いのと、下界の畑を家畜の食害から守るためである。牧場のように、家畜を柵で囲って飼う文化は無い。
よって、特に明瞭な登山道という訳ではない。不明瞭な踏み跡が、複数交錯している。
といっても、樹木は少なく、見通しは良いので、道に迷う心配はない。落石に気を付けてさえいればOKだろう。谷の右岸を行く。
この日のトレッキングは、Negiさんと私の2名だけだった。Gokalさんはチャトルの茶店で我々の戻るのを待つ。Angchukさんは、キャンプ場に残り、晩飯の仕込みを行っているとの事である。
8:15から登り始める。グリーンピース畑や、馬の親子がたわむれる傍らを抜け、ヒマラヤンハーブ、プルーポピーといった植物をかき分け進む。
靴紐に高山植物の断片がひっかかり、風流である。景色も美しい。
富士山の頂上と同じくらいの気圧なので、息切れは早い。無理してスピードを上げると、簡単に頭痛を催すだろう。ヤマケイ登山学校シリーズとかで、「高山病」について復習してから来るよろし。
どこからともなく、動物の甲高い鳴き声が聞こえてきた。左岸からである。目をやると、羊飼いを先導に、山羊の群れが斜面を移動している。
急峻な崖で、斜度40度はくだらない。きっと一匹こけたら、ドミノの要領で全滅だろう。しかし、ずり落ちることもなくスイスイ歩き、平然と草をついばんでいる。と思ったら、すごいスピードで群れごと移動をはじめ、稜線の彼方に消えた。私の数倍は健脚だ。
じっさい、このあたりで育った馬は、足腰が鍛えられ、高度障害にも強いので、高値で売れるそうである。
群れのしんがりに、護衛のシープドッグ3匹が張り付いていた。「何から守るために飼ってるんですか?」とNegiさんにお聞きすると、山犬や野生の狼、とのこと。狼が出るんっすね。
不謹慎だが、日本では二度と見られないし、いちど現れてくれないかな、と少し思ってしまった。
11:30に、標高4000mの小ピーク到着。これといって何もないが、腕時計の高度計が初めて4000の大台に乗ったのが嬉しくて、「にんまり」しながら写真を撮ったり、行動食を食べたりする。
行動食は、朝めしの時、Angchukさんが渡してくださる。中は、マンゴジュース、ゆで卵、バナナ、キャベツサンド、飴、唐揚げの詰め合わせ。加えてペットボトルの水を担いできている。高度障害を意識したため、水はけっこう飲んで、登り始めからここまでで既に3リッターを胃に収める。
休憩30分で、下山開始。
下りであっても、ちょっとスピードを上げるとすぐ息が切れる。走ったら死んでしまうに違いない。Negiさんは、傘を片手に、スニーカーで、跳ぶように降りてゆく。超人的だ。
ときおり(たぶん気にかけていただいて)立ち止まり、"What do you say 'tired' in Japanese?"などの雑談となる。Marcopolo Indiaは、主に日本人向けのエージェントなので、日本語をせっせと仕入れなければならないそうだ。これ以後連日、登山中は、日本語およびヒンディー語の講習会と相成った。しかし明らかに、Negiさんが日本語を覚えるスピードの方が早い…
下山は所要時間2:00。チャトル(Chattru | Chhataru)の茶店でチャイを飲んでからタダルプーに戻る。戻ったらまた、チャイが沸騰していたのでそれを飲む。体液が次第に、チャイに置換されていく気分である。悪くはない。
15:00を過ぎると、めっきり快晴となった。テントの近くにさっきのシープドッグ君が遊びに来たことも相まって、一気に30枚くらい写真を撮ってしまう。
ピントがブレないように息を止めつつ撮っていると、キャンプ場でも標高3500mあるので、酸素不足で頭がクラクラしてくる。たまに深呼吸が必要である。
シープドッグ君は、名は羊を冠するものの、山羊、馬など家畜ひととおりガードする何でも屋だ。
行動食の残りをねだりにくる時はペット風でお茶目だが、こちらが山羊に近づくと、とたんに全身を震わせうなり声をあげる。かなり遠方にいても、全力でこちらに突進してくる。飛びかかられ喉を食い破られそうな雰囲気である。これが彼の本来の業務なので仕方ない。
従って、山羊などの家畜は、見て楽しむのはよいが、触ると危険。たまに、ステキな落日の様子を撮り、犬の気をそらすといい。
日較差が大きいので、日が陰ると、さっきまで暑苦しかった日向を今度はおっかけてしまう。異性と同様だ。テントに潜ってぬくぬく過ごすこともできるが、周囲の山肌を流れる50段の滝の音や、上弦の月がたしなめないから我慢だ。
やがて、Angchukさんの歌声と、料理のにおいが漂ってくる。キャンプ場にただようカレーの匂い。世界中の誰の鼻腔もうれしくさせる効果がある。今日も胃液が元気だ。(まだ腹は壊していない)
インドに来てから、毎晩変な夢を見る。心から毒気が抜けていってる証拠だろうか。
ゆうべは少々特殊で、吉祥寺のパルコをパンツ一枚で走り回って逮捕される夢だったが、大学で必修単位おっことし日本に強制送還される夢を、毎晩のように見てしまう。
これは、心の持つ、自己修復作用ではないかと思う。飽き飽きするくらい同じ夢を見て、思い出すことのないようにしてしまう、という論法だ。ラーメンばかり食べ続けてると、ある日を境に飽きて、ラーメンが食卓にのぼらなくなる、みたいな。素晴らしい旅に来てまでトラウマで悩まないようにするため、脳みそが頑張ってくれているのである。
でも今度は会社が舞台になりだしたら鬱やなぁ。
今日も6:00起床。以後同じであった。屋外でメモが書けるくらいに明るくなっている。コーンスープに野菜炒めを食べ、テントの周りで腹ごなししていると、隣でテントを張っていた別パーティーのガイドさんがいらして、Negiさんと雑談を始めた。
Negiさんは、登山ガイドの繁忙期以外は登山学校の先生だが、その方も、夏季のみガイドをされており、普段は大学の、社会科のprofessorとのことだ。
「日本からいらっしゃったんですか。いまちょうど、私の研究室で、あなたの国のムツヒトさんについて研究してる所なんですよ」と話を振っていただいたはよかったが、私はそれが、明治天皇の名前ということに最後まで気づかず恐縮であった。
でも、「電機メーカーで働いてます」と私が自己紹介したら、「ああ、SAMSUNG?」と返ってきたので、一勝一敗ということで良さそうだ。
8:30にキャンプ場を車で出発。今日は、クンザン峠(Kunzum | Kunzan, 4551m)を経て、カザ(Kaza, 3600m)近くのラングリック(Rangrik, 3700m)というキャンプ場までの移動である。トレッキングは無い。
途中、バタール(Batal, 3690m)の茶店を9:55に通過。もちろん茶を飲んだ。ここから道路は急激に斜度を増し、つづら折れを延々と繰り返す。
標高4551mのクンザン峠を境に、「ラホール」から、「スピティ」に入ったことになる。川だけでなく、気候的、民族的な分水嶺でもあり、インドの文化圏と、チベットの文化圏がここで東西に分かれている。地面の色、建物の形など、辺りの雰囲気がガラリと変わる。
クンザン峠は、土産物屋や茶店も特にない、無人の峠である。水場が無いせいだろうか。客の数は多いので、OPENしたら儲かるのではと思うのだが、どうだろうか。
チベット仏教の祠や、「チョルテン」という石塔が、いくつか建ち並んでいる。トラックの運転手や観光客、誰かが連れてきた犬が、薄い空気(時計の気圧計では590hPa)のせいか、素晴らしい景色のせいか、石に腰掛け、気持ちよさそうにまどろんでいる。
峠の向こう、スピティは、常に乾燥した空気がうずまき、雨は滅多に降らない。常晴である。ロータン峠(Rohtang pass)をがんばって越えたモンスーンの残り汁も、ここでほとんど遮られる。
冬、峠は雪に覆われ、交通は翌年の7月頃まで途絶える。この間スピティへは、シムラ(Shimla, ヒマチャル・プラデッシュ州の州都)からスムドゥを経由する東回りのルートを使うこととなる。ただし、中国との国境に近いので特別地区となっており、外国人は、インド政府に事前申請→許可を受けないと、ここを通れない。
ちなみに2003年現在、そのルートは崩落で通行止めになっていた。このまま冬に突入したら一体どうなるのだろう。
峠といっても、地形に圧迫感はない。展望は前後左右とも広くきき、稜線方向も、地形はゆるやかな平原状だ。
谷方向、つまり稜線と垂直の方向には、どちら側も、谷を挟んで、ヒマラヤの荒々しい山並みがそびえている。すべての方向に向かって、トレッキングルートも延びている。
西の、稜線を巻くように延びるやつが、帰り際に寄ることとなる「チャンドラタール湖」へ行くルートだ。これは後述。
比較的大きな祠が、峠の一番目立つところに建っている。エキゾチックな色遣いが、蒼い空によく映える。色とりどりの旗は「タルチョ」といい、チベット語で、祈りの呪文が綴られている。これは、呪文の効き目を、風に乗せて彼方まで飛ばせるよう考え出された品である。でも土産物屋にも売っている。
祠に祀られたご神体に、硬貨をあてがい、落ちてこなかったら、願いがかなうそうである。間に空気が入らないよう、そっと密着させるのがポイントだ。
ご神体の表面はつるつるなので、あとは、どれだけすり減った硬貨を使うかが正否の分かれ目だ。あらかじめ研磨すれば確率は上がるが、日本の硬貨を日本国内で研磨すると、「貨幣損傷等取締法」に触れ、1年以下の懲役か20万円以下の罰金になってしまうから駄目だ。
インドに持ちこんでから削ったら大丈夫かもしれないが、この法律が、強制わいせつ罪のように「属人主義」かどうか分からなかったので、怖くて試せなかった。より多くの旅人の祈願成就にむけ、法律に詳しい方のご助力をお待ちしております。→
インドの硬貨にも、同様の制限があるかもしれなかったので、削る勇気は出なかった。でも、日頃の行いがよかったせいか、私の1Rs硬貨は、何もしなくても大人しく貼り付いてくれた。
クンザン峠から20kmの所にあるローザ(Losar, 4079m)の街に、パスポートの検査所、いわゆる「チェックポスト」がある。外国人の位置を掌握し、国境地帯の治安を維持するための施設である。往路復路で、それぞれチェックを受ける必要がある。
外見は、粘土でできた粗末な建物だ。政府直轄の施設にちょっと見えないが、節税にとりくむ姿勢は評価に値する。
扉をくぐると、土間に壁土剥き出しで、明かりは窓だけの殺伐とした室内にぎょっとする。明治時代から掃除してなさそうな机が一台。軍服のいかついおっちゃんが椅子に腰掛け、汚い字で、台帳に旅行者のパスポート番号を殴り書いていた。
「コマンドー」の拷問シーンを彷彿としてしまい、ビビった。
管理台帳には、パスポートの番号と氏名を控えられる。いつも観光客で混雑しており、その割に職員は平気で30分くらい不在になる。隣に食堂があるので、昼飯でも食べて待とう。青唐辛子満載の緑のカレーに、チベット餃子(Momo)を食べ、いい汗をかいた。
インドの飯屋では、よく「生タマネギスライス」や「カレーペースト」が、各テーブルに置かれている。これらはタダだ。CoCo壱番屋の「福神漬」と「とび辛スパイス」に似たようなもんかな。海外旅行での生食は結構チャレンジャーだが、タマネギの殺菌作用のせいか、何度生食してもまったく平気だった。ビタミン補給にぜひどうぞ。
そこから50kmでラングリック(Rangrik, 3700m)だ。スピティ川を渡る橋のたもとから、河原に降りる車道が延びていて、そこを車で下る。河原を、スピティ川からあふれ出た支流が交錯し、その水は澄み切っているので、これを飲み水および洗濯に使用する。しかし、川底に空き缶とかが沈んでいるのはいただけない。
キャンプ場の料金徴収に来たキューリック村の若者に「キャンプ場の清掃、やらへんの?」と訊いたら、「ノープロブレム」と、どっちとも解釈できる返事がかえってきた。次はキレイになっているだろうか。
我々のテントの脇に、地元の羊飼いの方が簡易テントを張ってらっしゃった。牧草地に家畜を放ち、テントからただ見守り、数日を過ごすそうである。ちょこまか働くだけが人間のミッションやないんやなー、と感銘を受けずにいられなかった。
晩飯に、「牛乳からつくった高野豆腐」のような物体が入ったカレーを食べ、今日も床につく。トレッキングが無い日は、助手席に収まってるだけだから、まったく体を動かさなくて済む。たまに写真を撮ったりする以外は、箸を持つくらいしか動作せずに暮らせるのだ。
よって、運動不足が気にかかる。夜、シュラフに入ってから、体中の筋肉が、動き足りなくってムズムズしてくるのだ。贅沢な生活のすえ初めて現れる、滅多に味わえない感覚である。
腕立て伏せのひとつもやりたくなってくるが、夜、テントから、規則正しい音がシャカシャカ聞こえていると、あらぬ疑いをかけられそうだと思ったので、やめた。
珍しく雲量9くらいの空模様だった。夜露の降りた牧草は、曇り空の下では寒々しい。それらをむさぼる馬の群れも、心なしか涼しげな様子だ。
寝ている間に、周りのテントが増えていた。夜に到着した旅行者も多かったようである。世界各国のテントと、朝の支度風景が観察できて勉強になる。ビバークしているパーティーもいた。家畜の蹄や夜風で、けっこう寝苦しい環境のはずだが、筋金入りな眠りの深さだ。
いやしくも山をやるなら、このように枕が変わっても、普段と変わらないか、むしろ普段より熟睡できるのが筋だろうが、私は夕べも、精巧に作った俊雄くん人形で彼女を脅かし嫌われる、という悪夢を見てしまった。おかげで寝不足である。気合いが足らないんだろうか。
少し二度寝して飯用テントに行くと、すでに朝飯ができていた。お待たせしてしまったらしい。
日本では信じられないが、私が飯を食べ終わるまで、Negiさん達はけっしてご飯を口にしないのである。上下関係が厳格なインド。飯においても、雇用の主従が厳しく守られているのだ。これが「文化」と、頭では分かっていても、なにしろNegiさんとは15も歳が離れているし、日本でヒラ社員生活を送っている私。恐れ多くて頬がひきつってしまう。
彼らをさしおいて飯を食うために、はじめのうちは、口では説明できないある種の感情を、がんばって抑圧しなければならなかった。
朝飯にはいつも、Angchukさんが生野菜サラダを銀皿に山盛り作ってくださる。大きなキュウリの薄切りは既に大好物となった。カレーと一口ずつ、交互に食べるとうまいのだ。
インドは、生野菜、米、カレーについては、日本より遙かにうまいと思う。ただし、パスタ、麺類、お菓子は、がまん大会と思わないと食えない場合が多かった。皆さんはどう思われますか?
本日もドライブと観光のみである。ラングリック(Rangrik)を撤収し、カザ(Kaza, 3600m)、リンティ(Lingti)の街を経由したのち、ダンカールの麓、シチリン(Sichiling)キャンプ場に荷を置く。そこから更に25kmくらい東にあるタボ(Tabo | Tapho, 3050m)まで車で往復し、ゴンパ(チベット教の寺院)を見学してくる、という行程だ。
ラングリックのすぐ先(5kmくらい)に「カザ(Kaza, 3600m)」というスピティ最大の街がある。国際電話、日用品の購入、病院での診療、車の燃料補給は、ここくらいでしかできないから、何度か訪れることになるだろう。
最大といっても、登山気分を害するようなケバケバしさは皆無だ。むしろ、ケンシロウとユリアが死の灰から逃げていそうなたたずまいである(カザの町並み/Nancy形式/1分30秒/2.95MB)。
北アルプスでいうと、有峰口くらいの規模だろうか。メインストリートは、全長500m位のY字型をしており、迷う心配もない。
ひさしぶりに日本に電話したくて、電話屋を探してみた。村の目抜き通りを、バスターミナルから1分くらい東に歩いた左手に、"ISD"の看板が出ている。ビルの二階だ。
唯一の公衆電話だし、観光地だから、山小屋の公衆電話と同じく、いつも満員だ。故郷への連絡を試みる人で、行列ができている。この時も、10人くらいが順番待ちしていた。並んでる人の肌の色や言語は十人十色だが、電話ボックスの扉の向こうから聞こえる、故郷の懐かしさに触れた嬉しげな調子は、皆同じ。
電話屋の隣がビリヤード場になっているので、混雑時はそこで遊ぼう。
せっかく並んだのに、私の2人前の人が話し終わったとたん、設備が故障し、「明日までに直しておくから、また来てくれ」と追い払われた。(インドの電話についての詳細はこの章)
カザ~シチリン間の道路は、部分的に舗装されており、他と比べ快適である。とはいえ村や畑の近くになると、急に凹凸が激しくなる。山腹の伏流水を村へと導くために、村人達が、アスファルトの道路に溝を掘っているのである。
パイプで地下を潜らせる、という状態になるには、あと10年はかかるだろう、との事である。パンクしかねない段差なので、スピードを出しすぎていると危険だ。
シチリンは、スピティ川と道路に挟まれた、鰻の寝床状のキャンプ場である。道路・川との間に段差はなく、テントに寝そべると、目線の高さに川が見える。夜な夜な、瀑音と、トラックのエンジン音が絶えない。
ラングリック同様、家畜が、入れ替わり立ち替わり姿を見せる。牧草地への入退場は、飼い主の一声で、統制よく行われる。一頭一頭は小柄でも、群れだと、辺りに地鳴りさえ起こる。怒濤の低音が腹に響き、鼓膜を揺らし、気持ちよく聞き入っていると、いつのまにか群れに巻き込まれ身動きが取れない。山羊は小柄だからよいが、これがブルや牛だったら、圧死もあり得るだろう。
氷河と共に山から運ばれた粘土質の泥が、河原に堆積し、独特の造形美を描いている。パターンは、雪山登山で見るシュカブラ(風紋)に似ている。水紋だ。
水紋は、河岸に延々と描かれている。すべて偶然の産物にもかかわらず、どの角度から眺めても美しい。どのタッチをファインダーに収めたら一番かっこいい構図になるか悩む。
夢中で撮っていたら、まだ充分に干上がっていない部分を踏んでしまって、膝まで沈んだ。靴一面に、ねばっこい泥が塗り込まれた。結局帰国するまで取れなかった。
シチリン~タボは、悪路が続く。一応「ナショナル・ハイウェイ」扱いの道路だが、時速20km/h以上出すとヤバい。
チャイを飲んでから出発したが、口に残る砂糖の甘さが、砂埃の不快感を倍増させ、ちょっと胃がおかしくなった。
タボの見どころは、チベット仏教の寺「タボゴンパ(Tabo Gompa | Tabo Monastery)」だ。
境内には、これといった装飾もない平凡なお堂が建ち並ぶだけだが、中には、仏像、壁画がぎっしり詰まっており、江戸っ子の丹前のように、色鮮やかに彩られている。
32体の仏像が壁一面に安置され、お堂の真ん中に立ち入ると、一斉に睨まれる。荘厳な、一挙一動に気を遣う雰囲気だ。信心深くない人も、思わず立ちすくんでしまうだろう。
建立は西暦996年で、7年前には、1000周年記念行事が盛大に開かれダライ・ラマも来たらしい。初期チベット仏教の芸術的・文化的特徴が当時のまま残されており、それだけでも今となっては貴重だが、壁画、仏像などが、他の寺と比べ際だって美しいことで有名だ。
特に、その32体の仏像が織りなす「立体曼陀羅」は、もうチベット本土にすら現存しないレアアイテムである。インドの国宝にも指定されている。ぜひ観ておこう。
残念ながら写真撮影は禁止だったので、絵はがきだけ買ってきた。15枚で120Rsもした。しかし画質は、10年前のプリントゴッコだった。
この寺を建立した当時の西チベットの王・コーレ(Khorre, 967–1040, 後にリンチェン・サンポと襲名)は、宗教に帰依するため王位まで捨てたストイックな人だ。合計9人と結婚したパブロ・ピカソとベクトルは正反対だが、ともに偉大な芸術家であることに異論はない。性欲と芸術は無関係なんだろうか。
普段は寺の門は施錠されており、見学時は、係の人に開けてもらう必要がある。着いた時ちょうど昼飯の時間(~14:00!!)で、誰も居なかったため、門の所で荷を広げていた露店で、土産物を物色する。
銀の指輪、羊皮の道具袋、穀物庫の錠前、教典を書き込んだ粘土板など、アンティークな品が並べられている。店の親父の話では、タボゴンパ周辺を発掘した際に出土した、古代チベットの遺品だそうである。それが、100~300Rsで手に入る。
遺跡というと、上を下へも置かぬ扱いを受け大切に管理されるのが普通と思っていたので、適当に拾ってきて売る、というのが眉唾物であった。
しかし、事の真偽はともかくとして、ノスタルジア溢れる質感でかっこよかったので、指輪とか買う。
指輪にはチベット文字で、"Own mone padme hum"
と刻印されており、「南無妙法蓮華経」が邦訳であると、Negiさんが教えてくださった。日蓮上人も、きっとこんな指輪をつけて育ったに違いない。
その他にも、店の親父の背後には、ヤクの毛でつくった暖かそうなパレオとか、逃したら二度と手に入らなそうな雰囲気の品が、ゴロゴロ吊されている。
周囲の非日常的な景色が、普通の土産物を、さも貴重な品であるかのように見せているのだろうか。
食指が動くが、パレオは1600Rsもした。ためらう私を、"Indian Rupee is not so heavy, so, take it easy."と親父は励ます(?)んだが、たとえ貨幣価値が軽くても、絶対値が重いと、貧乏人には意味がないんよなぁ。
親父は英語が達者で、齢60くらい。風貌は日本人そのものであった。長嶋茂雄に似ていた。
タボゴンパは現役で使用されており、周囲の宿坊では修行僧の姿をよく目にする。旅行者も泊めて貰えるのだろうか。
寺の隣にはゲストハウスもあって、相部屋50Rs、ツイン150~300Rsくらいと安いので、駄目もとで寺と交渉し、失敗したらゲストハウスに逃げる、という作戦も悪くない。
タボは、小さな村だが、宿屋や食料品店、喫茶店など、ひととおり揃っている。
そろそろチャイの甘さに飽きてきたので、ここの茶店では「ブラックティー」を注文してみた。メニューに書いてあったのだ。
しかし、出てきた茶は、色は確かに黒かったが、予想に反し、砂糖がたっぷり入っていた…
国際電話屋(ISD)は茶店が兼業で営んでいる。利用客が少ないせいか、ふだんは施錠されており、そのつど店の人に頼んで電源を入れてもらう必要がある。
再びシチリンまで車で戻る。昼下がりの日射しがかーなり暑かったため、Negiさん達3名は、キャンプ場の川で水浴びされている。
そういえば毎日のように浴びてらっしゃる。その上こまめに服も洗濯してらして、彼らの衣服はいつも清潔である。
私は、山では滅多に着替えないし、20日くらいだったら、風呂に入らず、かつ着たきり雀で過ごす自信はあるが、そろそろ罪悪感が募ってきて、今日は洗うことにした。
石鹸はキャンプ道具に入っている。体用の石鹸と洗濯石鹸を区別する念の入れようだ。
シチリンの水場は、川というより池に近い。藻のかたまりが入り混じり、水温は生ぬるい。地元の人でさえ、飲用にはせず、洗濯に限定しているほどである。あまつさえ、30mくらい上流が、家畜の通り道になっていて、有機肥料が含まれるのは想像に難くない。初めての人には、まことに勇気のいる入浴である。
しかし、思いきって頭から水を被り、すみずみまで石鹸を塗って洗って乾かしたら、やっぱり洗う前より気持ちよくなった。やってみるもんだな。
ちなみにこの水場は、昼から夜にかけて、水量が激減する(日照量≒蒸発する量と連動しているため)。飲料水は、近くの民家から貰ってくるか、北側斜面に吹き出している流水まで500mくらい歩いていって汲むことになる。
朝8時の時点では、やはり曇り空。
実は昨夜から今朝にかけて、とうとう腹が壊れてしまった。
夜中に河原へお百度を踏んだので、その足音を聞きつけてか、今朝はAngchukさんは、グリーンピース入りのおかゆを煮込んで下さった。シンプルな塩味で旨かったうえ、腹もなりを潜めた。素晴らしい薬効だ。
調子に乗って、パラタ(parata, 小麦の全粒粉を水で練ったものの重ね焼き)に蜂蜜を塗ってたらふく食べてしまう。驚くほどうまい。
食後には一応、持ってきた正露丸も飲んでみたが、使用期限が「1999/8」と書かれていたので、効いているかどうか不明である。だが結局、この後は、帰国するまで一度も腹を壊さなかった。
今日は、2日ぶりのトレッキングだ。シチリンからダンカール(Dankar)まで車で行って、ダンカールゴンパ(Dankar Gompa | Dankar Monastery)を見学。そこからトレッキングルートに入り、ダンカール湖(Dankar Lake)を往復してくる計画である。
8:10にテン場を出る。2kmほど西に戻り、北側急斜面のスイッチバックルートに右折する。ダンカールゴンパは観光名所なので、団体客の乗ったワゴン車が、点々と列をなして、何台も登ってくるのが見えた。シチリンからの所要時間は、1時間弱だ。
集落の背後にそびえる岩峰と同化するように、ダンカールゴンパは建てられている。昨日のタボゴンパより更に古い、今から1500年前に建立されたものである。
粘土で作った日干し煉瓦に石灰を塗った、特徴的な白壁である。ラダックやスピティの家屋には、よくこの工法が用いられている。焦げ茶色の窓枠と、東向き(日の出の方向)に建てるのも特徴だ。屋根を葺く場合、タマリクスの小枝を使う。降水量が少ないので屋根は平らな造りになっている。
煉瓦は、だいたい10年が耐用年数で、そのつど新しいやつに入れ替えるか、普通の民家だったら、家ごと作り直すこともあるそうだ。日当たりの良い所だったらどこでも煉瓦を作れるので、製作現場は村のあちこちで見かける。板で作ったフレームに泥を流し込み、上を平らにならすだけで完成である。
タボゴンパ(Tabo Monastery)もダンカールゴンパ(Dankar Monastery)も、好きこのんでこんな僻地にばかり建てたんかな、とはじめ思っていたが、違っていた。
古代に建立されたチベット仏教のゴンパ、偶像などは、1949年、チベットに侵略してきた中国(当時は支那)人民解放軍によって、かたっぱしから破壊されてしまったのである。有名な「文化革命」だ。
チベット全域では、少なくとも120万人のチベット人が死亡し、6,000におよぶ寺院が破壊されたと推定されている。
その結果、目立たず、攻め入ることが難しい、天然の要塞のような場所にしか、ゴンパが残されていない状態となったのである。
このへんの歴史的経緯は、1998年公開の映画"Seven Years in Tibet"を観るとよく分かるので、詳しく知りたい方はぜひご覧になって下さい。
してみるとここは、当時、迫害されたチベット教徒が隠遁生活を送った、暗い過去をはらむ地な訳だ。しかし今日は、ほんとに穏やかな快晴で、地元の子供たちも、そんな過去どこ吹く風といった調子でサッカーしていた。ボールは、観光客の捨てていったペットボトルであった。
どこの国でも、平成生まれは屈託がない。
ダンカールゴンパも現役で使用されているが、大規模な集会や説教のときは、最近新設された講堂を使うようになっている。この講堂の脇に駐車場があり、和尚さんに声をかけ車を停める。
駐車場の脇にはゲストハウスもあった。今はカザに主役の座を奪われているが、ダンカール村は、インドがイギリスから独立するまではスピティ最大の街だったそうで、宿屋や商店のような施設も、今なお比較的多い。粘土壁で、窓に花の鉢植えが並べられた、あたたかみのあるゲストハウスだった。
駐車場の入口にある大きな山門の袂から、ダンカール湖(Dankar Lake)へ行くトレッキングルートが始まっている。都合良く水場もある。洗顔や体温の急冷に便利だ。浴びてから出発しよう。
ダンカール湖までは、約40分かかる。このルートには、日射から身を隠せるような気や岩陰がほとんど無く、いきおい厚着していると死にやすい。私は、タンクトップにカッパだけ羽織って、下半身はジャージ一枚で過ごした。薄着なので、立ち止まったり、風が吹くと寒いことは寒いんだが、暑いよりなんぼかマシである。
度を超した日射しがさんさんと降りそそぎ、カッパのフードは決して外せない。帽子だと、突風で紛失する可能性があるので、フードが安全。
コースのほぼ中間地点に、大人5人でやっと取り囲めるくらいの、大きな野バラの株がある。丁度咲いていた。砂漠の殺風景に映え、何の疑問もなくキレイだ。
ダンカール湖が「ツムラ・登別カルルスの湯」みたいに濁っていたせいもあって、私としては、このルートは、湖より野バラに存在意義を感じた。
とはいえ、ぼーっと湖水を眺めていると、忘れた頃に、鱒や鯉が、遠くの湖面を跳ぶ。これに向かって、平べったい石を水面切りで投げたりしていると、結構遊べる。
でも神聖な場所なので、ほどほどにしとかないと逮捕されるかもしれない。魚は、捕まえて塩焼きにしたりはできないのだ。そういえば、インドは川だらけな割に、釣り人の姿は結局一回も見かけなかったな。
インドのキャンプでは公然と使用される石鹸も、聖地のため、ここでは禁止されている。しかし、結構な数のたき火跡も残されていたから、お泊まりはOKのようである。
水辺だから夜はかなり冷えると思われるが、砂漠と湖のコントラストを楽しみつつキャンプしたい人にはピッタリのロケだろう。ときどき家畜が水飲みにやってくる。
湖の西方の浅瀬には、4人乗りくらいのレジャーボートが座礁していた。かなり前に沈没したものらしい。せっかくここまで運んできたのに、持ち主はさぞ無念であっただろう。
ジムニーのエンジンが調子悪かったため、シチリン(Sichiling)へ戻った後、カザの整備工場へ修理に行った。
燃料をエンジンに送り込むポンプが、ゴム劣化のためイカれちまっていた。スーパーマリオの人相を悪くしたようなヒゲ親父だったが、腕は確かで、さっそうと直してくれた。かっこよかった。
ところで、標高が高いと、ライターの点きが悪くなる。特に、「着火マン」のような電子式は、スピティではゴミ同様だ。でも標高を下げればまた使えるようになるので、壊れたと思って捨てぬように。
そんな訳で、マッチが最強である。私はもう煙草やめちゃったので大丈夫だったけど、喫煙者は必携。忘れず持って行きましょう。(カザでも買えるかな)
曇り空の夜明け。
朝飯は、チャパティを油で揚げた「ブーリ」だった。熱いうちにカレーにつっこんで食べると、脂がお口いっぱいに広がって、死にそうなくらいうまい。日本に帰ったら再現しようと思って、Angchukさんの一挙一動を必死で記憶する。
テントの外では、Gokalさんが、車にたまった砂埃を丹念に掃除していた。座席も念入りにはたく。いくら掃除しても際限なくたまるから基本的にキリがないんだが、かといって何もしなければ、車は砂の城と化してしまう。こまめな砂払は重要である。
車に限らず、厳重に梱包してあったはずの荷物が、知らない間に砂だらけになっている事があるので、たまにザックの中の全点検をしたほうがいい。私は、財布がだいぶ犯された。
今日は、マニラン湖(Sapona Lake)のほとりまで往復の予定だ。シチリン(Sichiling)から車で40分の所にあるマネ村(Mane)まで行って、そこからトレッキングになる。
マネ村は、スピティ川の支流を挟んで村が二分されており、標高の低い側の集落を「下マネ」(Maneyomma)、標高の高い側の集落を「上マネ」(Manegonna)と呼ぶ。また、このスピティ川の支流は「マネ川」と呼ばれている。
上マネ村の車道を、車で行けるところまで行って、適当に駐車する。
昔は、もう少し先まで車で行けたような感じだが、崖の崩落で道幅が狭くなっていて、現在は難しい。地元の方がせっせと補修工事の最中だったので、将来は復旧するはずだ。
とりあえず今日は、瓦礫だらけの道路を徒歩で進む。
今日は、Gokalさんもトレッキングに参加。サラリーマン風の革靴だったが、私より俊敏だ…
かつて鉄橋だったところが一箇所あって、スタンドバイミーの要領で越える。眼下は岩々した渓谷でちょっと怖いが、列車が来ることは永久にないので安心だ。
橋をわたって200mくらいの所で、道路をはずれ、右手の崖にとりついて登りはじめる。崖といっても、二本足で登れる。トレースは薄く残っているものの、知らないとたぶん分からないし、雨や崖崩れに遭えば、その都度変化するだろう。落差は10mほどだ。
崖の上は、広葉樹が茂っている。それほど密ではなく、視界は明るい。森の向こう側の、マニラン湖に続く斜面も木々の隙間から見えている。森の中に、民家か、ひょっとするとそれにカムフラージュした寺が一軒建っていて、ここから、斜面の「傾斜がもっとも急な方向」に登っていくと、やがて胸の高さくらいの石垣が見えてくるから、乗り越える。
すると眼前に、はげ上がった、なだらかな斜面が現れる。何本か、マニラン湖(Sapona Lake)に向かうトレースが見えるから、好きの所を登っていこう。
「湖」だが、標高はマネ村よりずっと高い。登りコースとなる。所要時間は、さっき崖を上がった所から、登り1:30、下り1:10程度だ。
ゆるやかな登りが続き、最後は小高い丘の上に出る。マニラン湖(Sapona Lake)全体を、良い感じで俯瞰できる。家畜が、湖畔の沼地に、点のような大きさでちらばっているのが見えた。
いま通ってきたトレースも、主に、家畜を牧草地に導くのに使われていて、ときどきその群れとすれ違う。
帰りしな、小雨がポツリと頬に当たった。いつのまにか降り出していたらしい。中が濡れたら大変と思って、ザックのフタが閉まってるか確認する。
そしたら、フタは大丈夫だったが、ザックの底から、何やらオレンジ色の液体がしたたり落ちていた。舐めるまでもなく、行動食のマンゴージュースパックだ。破裂したらしい。蒼くなってザックをおろす。カメラが一緒に入れてあるのだ。中身を全部出し、一個一個チェックする。
カメラは、生ゴミ袋で包んであったので無事だったが、手袋と地図ケースがジュース漬けになった。ザックも、背負うのがためらわれる状態になってしまったため、手に持って運ぶ。途中、見かねてか、Gokalさんが「俺が持ってやるよ」とおっしゃってくださった。ありがとうございます。
帰り道、日本語の文法についてNegiさんから質問され、たどたどしく答えながら帰った。
「が」と「は」のニュアンスの違いや、「休む」の意味(寝る、という意味でも使う、など…)など。
答えられないと沽券に関わると思って、無い知恵を絞り、呻りながら歩いたおかげで、ペースがゆっくりになって、高山病予防に良かった気がする。
シチリン(Sichiling)では、Angchukさんが昼ご飯「香草入りチャーハン」を山盛り作って、嬉しそうに待ちかまえていた。
マンゴージュースを失ったとはいえ、行動食にはチョコレートケーキが5cmくらい入っており、かなり満腹なのである。容積的には、食べられない量ではなかったが、胃炎になると思われたので、少しだけいただく。
この日も水場で、パンイチになって、我が身とパンツを同時に洗う。マンゴ漬けの装備もごしごし洗った。
辺りには、家畜がうろうろしており、彼らと同じ視線で水浴びしていると、なぜか心が、背徳感に似た鈍痛を覚える。癖になりそうだ。
水浴びの後、NegiさんとGokalさんは、車の燃料補給に、カザ(Kaza)まで出かけていった。15時頃だった。
往復2時間もかからないので、18時には戻ってらっしゃると思ったが、真っ暗になっても戻ってこない。「待っていてもアレだから先に晩飯どう?」と、Angchukさんに勧めていただき、先に私だけ晩飯をいただく。
心配なままシュラフに入ったが、21時過ぎ、無事戻ってらした。翌朝お聞きすると、「ガソスタの素人店員が、燃料タンクに重油と軽油を間違えて入れてしまって、エンジンをオーバーホールする羽目になっていた」との事であった。
長めのトレッキングの日に限って快晴なのは何故だろう。サンサンと、空の隅々まで輝いている。
今日の行程は、ラルーン(Lalung)まで車で行って、リンティ谷(Lingti valley)沿いにデマール(Demul)の村まで登山。そこから車でラングリック(Rangrik)まで帰る、というものである。
最初の予定では、デマールの奥にあるタンギュッド(Tangyud)で泊まるはずだったが、キャンプ場までの道路が、崩落で通行止めとなってしまったため、断念。3日前泊まったラングリックまで戻ることとなった。
デマールのテン場は標高が5000m近く、未知の世界のキャンプが味わえると期待していたので、残念である。背に腹は替えられない。
車でカザ(Kaza)方向へ少し戻り、落書きだらけのバス待合所のところを右折。斜面をジグザグ登ってゆく。ラルーン(Lalung)への交差点には、この待合所以外に、特に目印がないので、注意されたい。
小一時間でラルーンだ。ここでNegiさんと私だけ車を降り、GokalさんとAngchukさんは、デマールに先回りする。
集落は、段々畑のように造られている。商店は見あたらないが、家屋は30程度。比較的、しっかりした集落に見える。この日は、村人総出で、村の用水路を補修しているところだった。
村人の一人が、ラルーンゴンパ(Lalung Gompa | Lalung Monastery)の鍵を管理しており、Negiさんが借りてきた。
ラルーンゴンパは、村はずれの目立たない場所にある。さらに、周りに柳の木が茂り、なおさらトマソンに見える。1007年前の建立だ。
地味な外観のなか、扉だけ、ややお洒落な様相で、たとえると、「千と千尋の神隠し」で、両親がブタに変えられた飲食店のような色遣いだ。
ここを、借りた鍵で開ける。天井の低い、薄暗い廊下があって、靴を脱いであがる。10mくらい先が本堂だ。もう一重、扉でガードされている。この扉を開けるまでは、建物自体、本当にふつうの民家のような雰囲気だ。とても寺にいるように思えない。文化革命の矛先から施設を守る知恵なんだろうか。
一転、戸の中は、お香がたちこめ、息をのむ気配に満ちている。前後左右の壁に、曼荼羅の諸尊塑像が隙間なく祠られ、天井は、経文を綴った布で覆われている。まるで洞窟を穿ってつくったような荒々しさである。
部屋中央に4体、いま入ってきた扉の両脇に2体の像が安置され、まるで生きているかのような、生々しい視線を私に投げかける。
壁の塑像は、粘土をベースに、金箔で装飾して造られており、この技法を「セルカン」という。1000年を経てなお、輝きを失っていないのは驚きである。
1000年の時でさえ、ゴンパに風格を与えこそすれ、エネルギッシュなたたずまいを奪うには至っていない。タボゴンパの立体曼荼羅と並び、スピティ最大の見どころの一つだろう。
これが未来永劫保存されますように、と願いをこめて、賽銭100Rsを奮発する。
撮影できるものなら撮影したかったが、"No photo"と貼り紙されていたので断念した。と思ったら、帰国後、「ゴンパの管理人に頼んだら撮らせてくれた」と書かれたホームページを見つけてしまった。なんてこったい。
ゴンパの傍らには、住む人のいなくなった廃屋が、崩れ落ちるのを待つばかりで残っていた。ゴンパの何十分の一しか使っていないに関わらず、すでに生活臭、歴史の終焉を感じさせる貫禄がにじみ出ている。建物は、人が使ってあげないと速やかに滅びるのだ。
ゴンパから、もと登ってきた道を少し下り、右手に見える川のほとりに出る。リンティ谷(Lingti valley)だ。幅1mくらいの、小さな橋が架かっている。
袂に、石を積み上げて作った塔が立っている。ケルンに似た形だ。
「チョルテン」(CHHROTEN | CHROTEN)という、チベット仏教のモニュメントである。旅人が村を出発、または別な村に着いた時、旅路を無事に過ごせるよう、または過ごせたことを神仏に感謝する意味を込め、石や布きれを積み上げ造る。従って、近隣一帯、村の入口と出口には必ず、積み上げられている。私も、河原で石を拾ってきて、一個積む。
これは石を積んだだけだが、粘土やコンクリート製の頑丈なやつもある。たとえば、クンザン峠に立っていた白い大きな塔も、チョルテンである。
Negiさんによると、"CHHROTEN"と綴ることも、"CHROTEN"と綴ることもあるそうだ。Googleだと、後者に矯正させられるが、地元のガイドブックでは前者で綴られていた。
綴りがまちまちなのは、これに限った話ではない。英語表記は、おおかた、チベット語の発音に対する当て字に過ぎないのだ。「夜露死苦」とか「怒羅衛悶」のようなもんだ。書き手の、そのときの気分でなんぼでも違う単語に化けてしまう。検索がめんどい。
Googleとかで、目当ての情報が見つからない場合、この表記の揺れを考慮すると、良い結果が返ってくることがある。
じわじわ高度を上げながら、左岸づたいに進む。トレースは、めずらしく明瞭--ふっといのが一本だけ--で、トラバースも怖くない。谷の反対側には、家畜のロバの群れが見えた。
ラルーン村の家畜かと思ったら、その隣のスムリン村(Sumling)の所有物だそうである。来るとき気づかなかったが、隣にもう一つ、村があったのだ。
40分ほど歩くと、細くなったリンティ谷の渡渉ポイントに出る。橋は、木の枝を草のつるで編んだだけのものだった。しっかりしたやつを造っても、どうせ雪解けの洪水で流されるので、あえてこんな簡素にしてあるのだ。実際、昨年の丸太が、派手に周囲にぶちまけられている。
当然定員は一人。巨漢が乗ったらまっぷたつにへし折れるだろうが、既に、沢の水量はだいぶ少なくなっているので、落ちても笑い話で済む。
アメリカ人の若者6名(男女混成)のパーティとすれ違う。全員カップルのようだ。トリプルデートか。互いに川の水を掛け合ったりして、仲睦まじく戯れている。「ケッ」と思わずにいられなかった。「橋が切れないかな」と、呪いをかける。
ここから登山道は、急な上りに転ずる。渡渉ポイントが標高3100mで、ゴールのデマール(Demul)が4200mだ。2時間かかった。
下からは、3900m付近で坂が終わっているように見えるが、上に出ると、そこから更に延々と、坂が続いているのが目に入る。これは精神的にきつい…
Negiさんからの質問
「『御尊父』『御母堂』という単語もありますが、結婚式のスピーチくらいでしか使わないですね。でも『お父さん』『お母さん』は、目上の人のご両親に使うのは適当でないです」…うーん、どうしたものか。
結局、「年下の人になら、『お父さん』『お母さん』と言っても不自然ではないですから、困るケースは、今後徐々に減ってゆきます」と先延ばし策を提示。ダメダメ日本人。
沿道には、ワイルドローズとニラが咲き乱れている。前者は写真の撮影+休憩に。後者は気付け薬に適している。さきっぽをちょっとかじるとうまいのだ。
標高4100mあたりから上は、デマール村(Demul)の大麦畑が扇状に広がっている。岩砂漠が、のどかな農村に一転するので、心底ほっとする。麦の穂先の間から、村の軒先が見え隠れしだす。
感嘆して写真を撮りまくったら、ここで一気にフィルム一本分終了。その場で交換したのがまずかった。砂が入り、写真が擦り傷だらけになってしまったのだ。帰国後、写真屋の軒先で茫然となり自失する。
もったいないけど、テントの中か、ゴンパにいる間に、早めに巻き戻して新しいフィルムを装填しておいた方がいい。ブロワーを使ったって、とてもおっつかない。
被害にあったかどうかは、基本的に現像してからでないと分からないが、フィルム送りの時に、砂が機械に巻き込まれる嫌な音がするので、うすうす感づく。「オーバーホールしたらなんぼかかるかなあ」と、取られる皮算用が脳裏をよぎり、なおさらダークに。
村の入り口にもチョルテンがある。この脇を通り、村の下側の縁に沿って、車道に抜ける。Gokalさん達が、そちら側で待っていた。
村の下方は、村中のゴミのたまり場になっていて、激しく臭い。山羊の死骸などが、たくさん転がっていた。家畜の糞などは、隙間なく堆積しているので、踏まないほうが難しい。
きれいな空気が吸える場所まで出てから、行動食の残りを食べて一息つく。
ひとしきり写真も撮ってから車に乗り込み、ラングリック(Rangrik)に下る。
ラングリック着は、夕方の16:00と、やや遅い時間となった。でもチャイは出た。飲み終わったら、すかさず晩飯。今日のおかずは2品だ。
まず第一弾。きざみトマトと紫タマネギを"Haldi powder"で炒めたの。
第二弾。ブータン産のキクラゲに、ショウガ、ニンニク、ピーマン、人参で炒めたものだった。バターとコーンスターチを少々加え、とろみと味付け。うまかった。
所でこのバター、ここまでずっと、特に冷蔵も何もしとらんにも関わらず、ちっとも劣化せずフレッシュだ。かびる様子もない。してみると、油と塩分の固まりなので、それほど腐敗を気にする必要は無いんだろうか。今度日本で試してみよっと。
そろそろカレーの味(ターメリックとガラムマサラ)にも飽き始めて、バターとか、ケチャップなどが出てくるのが楽しみになってきた。
他にもキャンプ用品の中に、タバスコ、オリーブオイル、そして日本人の盟友・醤油も入っていて心強い。
今のところ、胃腸はバッチリだが、もし風邪をひいたりして食欲が衰えたら、食べ慣れたこれらの調味料が、きっと強い味方になってくれるだろう。
「ありがとうキッコーマソ」を口ずさみつつ、チキンナゲットを醤油で食べた。
それ以来、この歌を聴くと、スピティの景色が頭に蘇ってくるようになってしまった。
晴れた朝。放射冷却で、曇りの日より気温はかえって低いはずだが、すがすがしさで忘れてしまう。
朝ご飯のチャパティが、中華鍋の上で一枚、二枚と焼き上がっていくのを、手のひらをすりすりさせ待ちかまえる。寒い日のご飯とみそ汁がうまいのと同様、温かいチャパティにも、「目で感じるうまさ」がたっぷり含まれている。
スネークマンショー風にいうと「チャパティは、脂を敷いた鍋の上でふかふかに焼き上がるのを今か今かと待ちかまえ、とびきり辛いカレーの具を包んで、すかさず『あぐっ』と食べるのが、一番うまい」
具は、カレー系はもとより、パイナップルなどの果物もなかなかいける。ホットクレープと同じ発想だ。帰ったら試してみましょう。
Angchukさんから目で盗んだチャパティの作り方。
材料 | 強力粉か薄力粉500g・塩ひとつまみ・油大さじ1・水1カップ |
---|---|
器具 | 中華鍋・濡れ布巾・まな板・すりこぎ |
所要時間 | 40分くらい |
ご自宅で是非どうぞ。
本日の行程。ラングリック(Rangrik)からタンギュッド(Tangyud)まで車で移動し、周辺の小高い丘を周回するというコースだ。
丘といっても、標高5000mに達する場所だから、肉体への負荷は大きい。カリンの塔で修行する孫悟空と同様、心肺機能のいい鍛錬になるだろう。Negiさんに連れられて、のんびり歩く。
ラングリック(Rangrik)キャンプ場の出口の橋を渡って、カザ(Kaza)方面へ進む。カザ(Kaza)の入口にある「歓迎!」の石門を左折すると、タンギュッド(Tangyud)への登り坂に入る。
舗装はぜんぜんされておらず、舌を噛み、口の中が砂だらけになる。が、もう慣れてしまって特に何も感じない。約2時間のドライブだ。
崖っぷちドライブの多いスピティだが、この道路は、谷のなだらかな右岸と左岸を、ゆるやかに行き来する形で敷設されていて、スピード出し過ぎもそれほど怖くない。時折の立ち小便も、身がすくむことなく、スムーズに排出できる。
途中、ランザ(Langza)という村を通過。この辺りから、スピティの北側を取り囲んでいる7000m峰が、にょきにょき視界に入り出す。いずれも、蒼天にそびえる、輝く雪に覆われた、神々しい座だ。
今日歩き回る丘や、その隙間の村々は、それとは対照的に、草原の緑色に包まれ、まさにオアシスである。
タンギュッド村からもう一段丘を登ると、タンギュットゴンパ(Tangyud Gompa | Tangyud Monastery)のある広場に出る。
途方もない静寂に包まれていた(タンギュッドの広場/Nancy形式/0分33秒/774KB)。一角の井戸の漏斗から、水のこぼれる音がかすかに聞こえるのみだ。
広場の真ん中に、バレーボールのネットが張られ、風に揺れていた。ひどく場違いな品に見える。若い僧からこうした楽しみを完全に取り除くのは難しいんだろうな。映画「ザ・カップ」で、和尚に怒鳴られながらサッカーに興じてした子供を思い出す。
気圧の低下(このとき591hPa)で集中力を欠き、聴力が低下していたせいか、否が応にも瞑想状態になる。武闘家が試合前、瞑想で雑念を振り払うように、だんだんモチベーションが上がってきた。
「これから、産まれて初めて5000mに立つのだ」と思うと、眠気が吹っ飛ぶ。
ゴンパは、チベット仏教の学校を兼ねている。現在約300人が修行しているという。比較的最近建てられたのか、ダンカールゴンパのように岩窟と同化はしておらず、普通の建築物である。色も、伝統的な白壁でなく、えんじ色に塗られている。
寺が、生徒の宿坊も兼ねている。ひょっとすると交渉次第では泊まれるかもしれない。
丘に登り始める前、お寺を見学させていただいた。今は夏休み期間なので授業は行われておらず、中は静かである。
教卓には、長さ1.5メートルはあろうかという、ぶっとい鞭が、不気味に置かれていた。
「何に使うんすか? これ」と聞くと、規律を犯したり、態度の悪い生徒を処罰するためだという。日本も、これを見習って欲しい。
ただし、女人禁制で、女性はここを見学できない。これは奈良の大峰山同様、物議を醸し出しそうだ。
学校を背に、左手にある丘にとりつく。地形的には、赤目の曽爾高原を登っているような感じだ。
その丘は40分くらいで頂上に着き、次は、右手500mくらい先の、別な丘に向かう。アップダウンはほとんどない。日常離れした薄い空気に吹かれ、ヒマラヤの山並み(タンギュッド周辺の稜線/Nancy形式/0分50秒/918KB)を、これでもかと言わんばかりに見せつけられる。
天空の国に連れてこられた気分になる。
チャウチャウカンニルダ(Mt.Chau Chau Kang Nilda, 略称 "CCK", 6303m)というピークが、遙か彼方の稜線にそびえている。正三角形の美しい雪山だ。アイゼン+ピッケルは必要なものの、アプローチが短く、比較的短期間(マナリから往復10日)で簡単に登れるとのこと。ぜひまた登りに来てくれ、とNegiさんが誘う。
3つ4つと丘を歩き、標高5000mを越えたあたりで降りることにした。
どの丘からもタンギュットに引き返せるので、晩飯までの残り時間や体力を考慮し、どこまで行くかオンデマンドで決められる。
帰りの所要時間は、1時間ばかりだ。下るといっても標高差は僅かなはずだが、空気が濃くなっていくのが肺で分かる。ありがたく吸い込む。
帰りしなNegiさんが、ときおり河原(涸れ沢)の石を拾い、叩き割って断面を調べている。アンモナイトの化石が見つかるそうなのだ。そりゃすごい。
でかい戦果を挙げれば、帰国後、彼女に自慢できる。頑張って、ガンガン砕きながら私も沢を降りたが、結局なにも見つけられなかった。
しょんぼり車の所まで帰ってきたら、地元の子供らが嬉しそうに集まってくる。
「おっちゃん。ええアンモナイトあるよー」
小さな手のひらに、大豆くらいのアンモナイトを乗せ、もう片手でVサインを出している。「売価20Rs」という意味だ。こうやって小遣い稼ぎをしているのだ。
ちょうど小銭の持ち合わせがなかったので、残っていた7Rsと、行動食のチョコレート飴5切れで交渉成立させる。これが、今回の旅行でもっとも良い買い物であった。
ラングリック(Rangrik)に戻った後、少し頭痛が出た。さすがに高山病の症状が出始めたようだ。バファリン飲んで寝る。
頭痛はすっきり治っていた。すばらしい快晴が心地よい。
放射冷却と、川の中州というラングリックのロケーションが相まって、アンダーウェアを着ていてちょうど良い気温だった。フリースも持って行ったが、これは無くてもなんとかなるかもしれない。
缶詰パイナップルにチャパティ、トマトスープの朝食。
今日の行程は、キーゴンパ(Ki Gompa | Ki Monastery)とキバール村(Kibber, 4205m)の見学である。登山というより、散歩に近い運動量だ。どちらも、車で横付けできる。
キバール村は、「人が定住している、世界で一番標高の高い村」だそうである。入口の看板に、そう掲げられている。
大麦とエンドウ豆栽培、加えて観光資源を、生計を立てる主な手段としている。そのため比較的、現金収入に恵まれ、近代化が進んでいる。学校や郵便局、観光客向けの宿、雑貨屋が軒を連ね、TVや電話(どちらも衛星中継)も利用できる。人口は約400人。しかし夏場は、それを上回る観光客が常時滞在するとか。
秘境には違いないが、上高地のように大衆化する日も遠くないだろう。じっさい、賑やかな村だ(キバール村の街角/Nancy形式/0分27秒/1.11MB)。
Negiさんに連れられて、家々を結ぶ小径、畑のあぜ道を2時間ほど散歩する。
白壁造りの家が、この村でもたくさん見られる。前述のとおり耐用年数は10年だが、最近は、鉄筋コンクリートが徐々に導入され、半世紀は耐えられる家も増えている。あなたが次に来るときは、全部コンクリートに移行しているかもしれない。しっかり撮っておこう。
道すがら生えている植物や、キバールの名所旧跡をいろいろ紹介・解説してもらいながら、村の外周に沿ってのんびり一周する。今日は時間に余裕があり、道草し放題だ。
キバール村から、ラダックのレー(Leh)へはトレッキングルートが敷かれていて、所要時間・片道10日程度。暇をもてあます旅行者に人気だそうだ。車は入れないので、牛馬に荷物をくくりつけるキャラバン形式になる。
車の旅も楽で良いが、キャラバンのほうが非日常の度合いは比較にならないだろうし、いつか強引に休暇を取って歩いてみたい。ここ経由でザンスカールに行ってみたい。
"Raten-JOT"という野草。ひっこぬいて根の皮を薄く剥くと、そこから赤い染料が採れる。
衣服の染色や、ヘアマニキュアとして、古くから利用されている。育毛作用もあるとの事。禿が心配な人は、キバール村を避暑地にするといいだろう。私も念のため塗りたくった。
花の咲いていない株の方が、根っこは赤いそうである。村のあっちこっちに咲いている。
聖水と呼ばれる水場。
30年ほど前、"Serkhong Rimpoche"という聖者がこの村で亡くなり、荼毘に付したところ、ここから突如、水が吹き出してきたと言われている。それ以来、聖水として崇められ、村人がタンク片手に汲みにやってくる。
水場の周りは、スピティにしては珍しく、地面が見えないくらいの藪になっている。それもあってか、普通の水場とは明らかに違うぞ、と感じさせる雰囲気を漂わせている。
海外で生水もチャレンジャーだが、手酌で一口いただいた。
聖水から坂を下ると、村の入口まで戻ってこられる。入口のチョルテンは、観光客を送迎する車でごった返していた。
観光地化・近代化が進んだとはいえ、なお物資輸送は人力、馬力中心である。貨物用トラックの感覚で、その必要性はまだなくなりはしない。
渋滞で身動きが取れなくなった車の間を、脇目もふらず(キバール村の馬/Nancy形式/0分19秒/946KB)、車体に体当たりしながらぞろぞろ通り抜けていく。猪突猛進。
跡には、おびただしい数の馬糞が点々と残されることとなる。撮影に夢中になるあまり、彼らとクロスプレーすると、出たてほやほやの糞を、うっかり服や靴に付着させてしまう危険がある。注意されたし。
次にキーゴンパ(Ki Gompa | Ki Monastery)を見学する。これまで見たゴンパの中で、一番防御力が強そうだ。
微妙にゆがんだ、粘土造りの直方体が、何層にも積み上げられ、迫力ある構造になっている。遠くからでも目立ち、忘れがたい印象を与えるだろう。内部は階段と扉だらけで、単身乗り込んだら迷子になって泣く。
しかし、塑像や壁画はそれほどすごくない。ラルーンやタボの後に見ると、たぶん「へぇ」程度で済んでしまう。順番に気をつけよう。
「へぇ」で済ませてしまったせいか、写真を撮るのを忘れてしまった。
要塞の麓の宿坊は、西暦2000年のダライ・ラマ来訪を記念して、アメリカ人の寄進によって建てられたものである。
そのまま車を、クンザン峠方向に走らせる。今日の宿泊地は、クンザン峠(Kunzan pass)のやや手前、アーチャ(Archa)である。
両側を急峻な崖に遮られ、日があまり射さない。チャイを飲んで暖まってから寝よう。
チャイ三昧のため、そろそろ糖尿病・肥満が気になり出す。「饅頭怖い」よろしく、チャイの糖分が恐ろしくなってくる。ただし本気である。
Angchukさんにお願いして、シュガーレスで煎れていただく。いつもチャイには、「タージマハル・ティー」というブランドの赤色パッケージを使っていたが、ストレートの場合、緑色パッケージを替わりに使う。色によって渋みが違うらしい。
赤 | ベリーストロング |
---|---|
黒 | ストロング |
緑 | マイルド |
となっており、インドでは常識ということだ。今度誰かに、うんちく語ってやろっと。
夜は、川の畔のせいで、けっこう冷えた。夜、小便しにテントを出たら、吐く息が白かった。
今日がスピティ最終日だ。砂埃とおさらばできることと、みずみずしい場所に帰れることが、とても嬉しく思える。
早朝、アーチャ(Archa)を発ち、最後の砂埃まみれ道をぐんぐん登ってゆく。
右手には、河原が赤い石で敷き詰められた、大きな沢筋が見える。何カ所か、人工的に石垣で囲った場所があって、これは個人所有の畑である。鉄砲水で破壊されるリスクを負ってでも河原に造らないと、農業用水が得られないのだ。
この過酷な環境に、一体何が、人を縛り付けているのだろうか。
10日ぶりのクンザン峠(Kunzan pass)で、二度、祠へお祈りをする。ここから、チャンドラタール湖(Chandertaal Lake)へのトレッキングルートが分岐している。案内板もあって、それによると、湖まで9kmの道のりだ。
また本来、チャンドラタール湖へは、ラホール側から車で横付けできるようになっているが、現在道路が崩壊しているため、更にラホールまで歩いて戻る必要がある。
このため、湖から道路の崩落地点まで、2km強が加算される。つごう約11kmが、今日の行程である。
天気は快晴。風が吹き、砂埃で少し目が痛いが、まずまずの登山日よりだ。しかし他に登山者は誰もおらず、追い抜くことも、また、対向者とすれ違うこともなかった。Negiさんと私の足音だけが、月面みたいな荒野に轍をつくる。
地形・風景は、北アルプスの槍ヶ岳~南岳に似た感じ。岩盤がむき出しになった稜線を、南側を巻き気味に西進する。
トレースはあるが、人間の足跡より、家畜の蹄の後の方が数多い。これだけ見ると旅情いっぱいだが、ガラスの破片(ジュースの空き瓶)や空き缶が、けっこうな量捨ててあって、雰囲気が台無しだ。それに地べた座りすると刺さって危ない。
進行方向左手には、チャトル川を挟んで、山がひしめいている。峰と氷河が、互い違いに並んでいて圧巻だ。"CB"(Chandra川とBhaga川に挟まれた山群、の意)と名に冠する山群である。この登山道からは、CB10~14の5座と、M-4と呼ばれる独立峰が特に目立つ。どの山も、6000m越。マナリから10~12日で登頂できるとのこと。
この中で、一番かっこいいと思ったのは、M-4峰だ。「銀の氷河(Chandi-ki, Glacier)」という氷河を遡行し登頂するのだそうだ。山の姿は言うに及ばず、名前を聞くだけで登ってみたくなる。
やがて道は尾根を外れ、チャトル谷側へと高度を下げてゆく。谷から吹き上がる風が、多量の砂塵をはこんできて、顔面にあたってバチバチ音を立てる。冬山で吹雪をかわすのと同じ要領で、くるりと後ろ向きになると(風上を背にすると)楽になる。練習しとこう。
途中、清流の沢筋を2回横切る。洗顔、洗髪にちょうどいい水量だ。服も洗いたくなるが、どうせまた汚れるので諦めましょう。
湖は、到着の1時間半くらい前から視界に入るが、なかなか距離が縮まらない。今まで体験した「逃げる峠」の中で、最凶の部類に入る。おだやかな慈悲の心で歩くしかない。
じれったい分、湖の透明度はすばらしい。伊達に、チャンドラタール(チャンドラ=月、タール=湖)を名乗っていない。標高は4270m。周囲約3kmの、南北に長い山上湖だ。してみると「上弦の月」といえる。
ダンカール湖とかと次元の違う透明度である。周辺の雪解け水が伏流水として豊富に流入し、この透明度をつくりだしている。年中絶えることのない水量が、砂塵を洗い出しているのである。湖の奥底は、エメラルドグリーンに溶け、湖岸は、奇跡のような砂浜が続いている。
ほとりにはチョルテンが積まれている。旅人がここで受けた感激の重みを表すのように、旗が、幾重にも押し込まれていた。チョルテンは、旅の無事を祈願するためのモニュメントだが、ここの場合、旅路で「奇跡」に巡り合えたことへの感謝、という意味も込めたくなる。
すべての義務を放棄して、ずっと見ていたい。行動食をここまでとっておいて良かった。ホットケーキ、蜂蜜、カステラ、ジャガイモ、マンゴジュースを、湖面を眺めてじっくり食べ、最高に幸せな時間となった。
キャンプ適地もある。この水で料理やチャイを作ったら、プラシボ効果で寿命が延びるに違いない。キャンプ客を当てにして、テント造りの売店も営業していた。ミネラルウォーターやお菓子の類が買える。
傍らには、「ヒマラヤをきれいにしましょう」という警告が書かれていた。確かにこれを汚したら、切腹ものだろう。
湖水は、畔の東端から、小川となって下流へ向かう。やがて、チャトル川の濁流と同化してしまうのだ。
帰りは、湖から、車の入れる場所まで約1時間歩く。なだらかで、あけっぴろげな地形(チャンドラタール湖~ラホール/Nancy形式/0分15秒/332KB)で、えげつない砂埃が吹いてくる。靴が、ここまで砂だらけになったのを初めて見た。砂がつもりすぎて、水滴をはじく有様である。
ちなみに帰国後の「毛穴すっきりシート」も凄かったが、ここには載せない。
360度どこでも歩ける地形なので、雪原や霧の中だったら怖いだろう。今は8月だからよいが、9月上旬には、もう雪が積もる日もあるので、その場合ご注意下さい。
道路の崩落地点の近くに、GokalさんとAngchukさんが先回りしている。すでにテントを立て、晩ご飯をご支度いただいていた。
どこからかやって来たシープドッグ(シェパード)が、テントの影で、残飯が出てくるのを今か今かと待っている。おやつの残り・クラッカーを、一緒に仲良く食べた。
食べた後のストレートティーがなんだか歯にしみるので、ジムニーのサイドミラーで口腔を確認。虫歯が黒ずんでいるのが見えてしまう。ギャーと叫び、以後歯磨きは、普段の二倍、念入りになった。
帰国後、まっさきに治療。
今日の晩ご飯には、インドのインスタントラーメン「マギー(Maggi)」が出された。袋から出し、お湯を入れて待てば完成なのは、チキンラーメンと一緒だ。
しかし、インド料理どころか、今まで海外で食べたあらゆる料理のなかで、もっともマズかった。天ぷら2kgくらい揚げた油を口に含んだような味がした。
翌朝、来る時通った道を引き返し、マナリまで帰った。
特に重大な事故もなく、無傷で帰還できてよかった。ひとえに、Negiさん、Angchukさん、Gokalさんのお陰である。
マナリで解散の時、もっと涙涙の別れになるかと思ったが、「じゃ、お疲れ様」「10日間、本当にありがとうございました」だけで終わってしまった。
マナリ(Manali)に帰ってきた翌朝。
広い布団で久しぶりに寝られるのが嬉しくて、何度も二度寝。合計五度寝くらいして、ようやくベッドから出る。パソコンが、なぜいつもサスペンド復帰に失敗するか分かった気がした。
寝ている間に、昨日、ヴァシスト村(Vashisht)の温泉で強打したケツから出血し、パンツが血だらけになっていた。ちょっと焦る。絆創膏とパンツをとっかえてとりあえず様子を見ることに。
ヴァシスト村の北端に無料の公衆浴場(Vashisht Hot Bath)があって、昨日は、スピティから帰ってきた後、そこに一風呂浴びに出かけたのである。露天風呂である。浴槽は大理石で出来ていて、温泉の成分でなおさら滑りやすくなっている。加えて昨日は雨。滑るなという方が難しい。
あれほど森田さんに、「浴槽の階段、滑るから気を付けなよ」と言われていたのに、予言通りの行動を取ってしまった。浴槽から上に上がる階段のはじっこで、したたかケツを打った。あれ、もし後頭部を直撃してたら、たぶん死んどっただろうなぁ。だってケツ打った直後、痛さでしばらく起きあがれんかったもん。
結局これが、今回の旅行で一番大きなケガになってしまった。やれやれ。
この公衆浴場は、リラクゼーション施設というより、エンターテイメント施設と考えておいた方がいい。宿から遠いうえに、人が多く、あまり落ち着いて体を洗ったりできないのだ。
以前は、村の各家庭に、天然温泉からパイプ直結でお湯が供給されていたらしいが、村と州政府の話し合いがこじれ、現在は使用できない。復活してほしいものだ。
マナリからニューデリー(New Delhi)へは、来る時と同じ、Desent Indo Tours Pvt. Ltdの車で帰る。
実はこのとき酷い二日酔いで、来た時以上に、いやむしろ、スピティで砂埃にまみれてドライブしているときより何倍も気持ち悪く、死にそうだった。これが、今回の旅行で一番つらいドライブだったな。やれやれ。
ニューデリーへ向かう高速道路に出てすぐの所に、名前は忘れてしまったけど、高級ランチバイキングの店があった。ここで昼飯にする。高級といっても、値段は大学の生協くらいかな。
ここのデザートが、激ウマだった。インドのお菓子はイッちゃってるのが多いと信じていただけに、これには、価値観を一気にひっくり返された。
麦焦がしを、山羊の乳で練って焼いたケーキを、タッパーに山盛りで200Rsで買う。「日本に持ち帰りたいんだけど、日持ちする?」とレストランの店長さんに聞いたら、任せとけといった顔で、"Minimum 10 days. 2 weeks guarantee!! No refrigerator is needed!"と返ってきた。
山に持って行ったバターもそうだったが、意外に長持ちするのだ。スジャータの国・インドでは、乳製品を延命するテクニックが発達しているのだろうか。
これを帰国後、会社へお土産に持って行ったら、「なんだか不潔な感じが…」と、大ひんしゅくだった。
日本のケーキ屋だって、食べ物剥き出しの状態で、紙タッパーに詰めて売ってる訳だし、そんな大差はないと思うのだが、なぜだ。
翌日は、オートリクシャに怯えながらニューデリー市内を散策。牛肉が御法度のはずの国に、なぜかたたずむマクドナルドに入ってみた。
インドは国民の83%がヒンドゥ教徒だが、12%--とはいえ1億人は下らないイスラム教徒も暮らしている。
従って外食産業は、ヒンドゥ教における牛肉のタブー、イスラム教における豚肉のタブーの両方を考慮しないと商売できない。これらの宗教では、キリスト教圏(牛肉は食べる緑豆とか)や何かと比較にならないくらい戒律が強く、教徒はこれを頑なに守る。
破った者は厳しく罰せられる。
1995年には、バンガロールのケンタッキーフライドチキンが、化学調味料を多用しているという理由で、保守系(インドで保守系というと、ヒンドゥ系の諸団体から派生した右翼派がそれにあたる)の農業団体に襲撃されたほどである。
道頓堀川に捨てられるだけで済む国と、えらい違いである。
上の看板にあるように、肩書きは「ファミレス」だ。しかし家族連れはわずかで、観光客風の若者や、金持ちっぽいおっさん達が団体で席を陣取っていたりする。
溜まり場と化している(インドのマクドナルド店内/Nancy形式/0分06秒/215KB)点は、日本のファミレス風といえる。客の回転はそれほど速くない。
前述の事情を考慮し、メニューは「ベジタリアン用」と「ノンベジタリアン用」とに分けられている(この区分自体は、インドでは普通に見られる)。前者は、乳製品を除き原料はすべて野菜 or 穀物。後者は、鶏、羊、魚といった肉が使われている。目が疲れて読みにくい彼らのWebページにメニューがすべて掲載されているので参考にしてみよう。
チキンマックグリルとコーラのセット(41Rs)を注文。店員さんの営業スマイルは、充分行き届いているであろう社員教育を思わせる、洗練されたものだ。
できあがり時間も、日本と変わらない。出てきたら金を払って、自分でトレーを席まで運んでく方式も日本とおんなじ。
ただし、食べ終わった後は、店員が下げてくれるようだ。知らずに自分で捨てに行ったらたいそう感謝された。
中身はマヨネーズとタルタルソース風味で、なかなかうまいのだ。ジューシーなチキンサンドの食感だ。学生時代、金が無くて食パンにマヨネーズ塗って食べてた頃の記憶が蘇えってくる。それに肉が入っている訳だから、贅沢感倍増だ。
インドでは、鶏肉はだいたい小骨入りで出てくるが、それも入ってなくて食べやすい。
マクドナルドは、欧米文化アレルギーの強いインドへの進出にあたり、相当慎重なリサーチと対策(主力商品の牛肉ですら放棄する徹底ぶりだ)を行ったらしく、その結果、他の国の店舗とは明確に路線の異なるメニューが満載となっている。我々日本人に味が想像できる品といったら、フィレオフィッシュくらいだろうか。
現地法人の社長は、 「牛肉・豚肉を排除した結果、食材は、インドのどこにでもある極めて家庭的な品揃えとなった」 と、特別なレストラン(=襲われてケンチキの二の轍)であることを否定している。ファミレスを標榜するのは、このような事情もあっての事だろう。
そんな、外見は遊び人なのに「ホントは真面目なんだ」と言い張る歌舞伎町のナンパ師のようなマクドナルドに、一度行ってみてはいかがでしょうか。
クーラーが効いて、きれいなトイレも付いてるので、ハエの飛び交う定食屋に飽きてきた頃に最適と思われます。
脂の苦手な方には、Subwayという選択肢もありますが、こっちはこっちで、「ストレートティー」に砂糖が飽和するくらい入っていたりするので油断がならない。
夜の便で帰国の途につく。
離陸時、機内からは、来た日の夜と同じように、ニューデリーの夜景がよく見えていた。同じように、ドライバーの顔まで識別できる。二週間前、同じ飛行機の中で、初めての海外登山への期待に心臓を高鳴らせていた自分の姿が、鮮明に蘇ってきた。
夜景はぐんぐん小さくなっていく。
空港まで見送ってくれたガイドさんの、「また、インドに来てくださいね」という言葉を、何度も反すうしながら、私は、また必ずインドに来て、おいしいカレーと、ヒマラヤの景色と、それにもっと奥深くに隠れている山の魅力を味わってやろう、と心に誓った。
次の機会は、意外と早くやってきた。機内でジュース飲んでたら、機内放送が入る。機長のアナウンスだった。
機長「皆様。誠に、誠に恐れ入りますが、エンジントラブルが発生致しました。これより当機は、ニューデリーに引き返します。所要時間は20分を予定…」
という訳で、2時間ぶりに、再びインドの地を踏むこととなった。
エンジン修理に丸一日かかり、その間、マレーシア航空が用意してくれた「ハイアットホテル(五つ星)」で、贅の限りを尽くす。ビュッフェの料理を山盛りで食いまくって、ホテルのプールで泳ぎ、チャイも久しぶりに飲んだ。
同じ機に乗り合わせていた多くの方々とも知り合いになれて、今でも文通や飲みが続いている。
「すみません有休延ばしていただけないでしょうか」と上司に国際電話するときは震えたが、素晴らしい二度目のインド旅行となった。
-完-
命は海から生まれ、陸へと生活圏を広げた。慣れ親しんだ環境を理不尽に捨てさせたのは、多様性を求めるDNAが与えた、好奇心という感情だろう。
海から最も離れた場所であるヒマラヤ。生命が最後まで行き着けなかった、そして一番行きたくて仕方がなかった場所である。
星空の夜、横になってテントから顔を出し、暗闇を見ていると、人生の走馬燈に吸い込まれていく。
今日の飯、昨日撮った写真、成田を出た日、学生時代、物心ついた頃の思い出。
すべてが連鎖して、今、好奇心の一番満たされる場所に居られるのだと思うと、喉が熱くなって、胸を突き上げた。
かつて何かの生き物が初めてヒマラヤを見たときも、同じ気持ちを抱いたのだろうか。いずれにせよ、この過酷な山岳地帯に住み、やがて人が暮らし始めた。
ゴールに着いてからも、旅は止まなかった。何ヶ月もかかるヒマラヤ越えを、人々は遙か何千年も前から、幾度も繰り返してきた。
荒廃した岩の砂漠から岩塩を運び、インドやカトマンズから、米や衣類を持ち帰った。
エンジンの発達と共に衰退はしたが、現在もヒマラヤには、旅人の踏み跡だけで造られた交易路が、のべ数万kmにわたり、網の目のように張り巡らされている。
ただし、この旅は、必要に迫られてのことであった。ヒマラヤ内部だけでは、生活を維持するための物資が自給できないためだ。
旅の原動力は、レジャー気分の探求心や好奇心から、命を繋ぐための必要性へと、少なくとも旅人の意識の上では変わった。
DNAが、生き残りたいという欲求に基づいて辿り着いたはずの場所には、皮肉なことに、自身を脅かす過酷な環境が待っていたのである。
山登りを続けていると、慣れやマンネリ化のせいで、山で受ける感動の質が、明らかに低下してきたと感じることがある。これを打破する方法は経験的にひとつ。より困難な登山に挑み、より大きな達成感を得るしかない。
従来のレベルで満足できなくなったら、もっと難しい場所、もっと高い山に、どんどん足を踏み入れないといけない。自転車操業、麻薬にも似た悪循環である。
もちろん同じ山域でも、季節やルートによって状況は刻々変わるが、心のどこかでマンネリを感じる部分は、どうしても残る。
いくら「おまえの観察力が足りないのだ」と言われようと、毎日ラーメンばかり食べ続けていたら、たとえスープの種類が毎日違っていても、時にはカレーが食べたくなるだろう。私の鈍感な神経ををわかって頂きたい。
結局、ヒマラヤ、アルプス、南極、五大陸最高峰、などなど、DNAが目指したのと同じゴールを目指すことになってしまう訳である。
そこで不安が頭をもたげてくる。若造がこんなことをいうのも恐縮だが、「これらの極地に着いてしまったら、次は一体、何がぼくを満足させてくれるのだろう」という不安である。
もう地上に、それ以上過酷な場所は見つけられないかもしれないのだ。それ以上得られるはずのない「山への感動」を求め、過酷で時間ばかりかかる旅を、一生、繰り返すことになりはしないだろうか。
無間地獄。
大学時代、特に北アルプスを何週間もさまよった後など、よく、こんな不安が心に乗っかっていた。
今回初めて、海外の山、それもヒマラヤという山域に来れたことで、それをだいぶ、懐柔することができた。
一生涯で廻りきれるほど地球は狭くはなく、むしろ、廻りきれるのが不思議なくらい、大きな球体なのだとわかったからである。地理の教科書で、数字でしか分からなかった、日本の広さと世界の広さの比。これを肉眼で観て、杞憂は吹き飛んだ。一生、廻る場所に困ることはないと確信した。
最果てだと思っていたこの場所にも、もっと遠くへ、と願いをこめ、祈りの呪文が掲げられていた。
ヒマラヤを、一生涯かけ歩き続けたヒマラヤの人々でさえ、まだ見ぬ土地、お寺の無い土地が、この山のどこかにあると信じ、この旗を掲げ続けてきたのだ。
世界中にあますことなくこの旗が立てられるまで、感激を享受できる場所に私が事欠かくこともないだろう。次はザンスカールへ行こうっと。
7世紀初めから9世紀中ごろ、チベットは「吐蕃」と呼ばれる王国が統治しており、この名が、14世紀中ごろまでチベットの呼び名として用いられた。
吐蕃は、遊牧民を発祥とした王朝であったが、土着の農耕民を下層階級に従え、安定した地盤の上に体制をつくることができた。王朝の成立時に築き上げた独自の文化はもとより、近隣のネパール、インド、中国の文化を精力的に導入し、近代化の進んだ盤石な国家となった。また、このとき仏教が国教と定められた。
しかし、唐との間で幾度も領土争いを繰り返し、次第に国力を消耗していく。10世紀初頭、吐蕃最後の王・ニマゴンは、西チベットの領土を、彼の三人の息子に分け与えた。
長男にラダック、次男にグゲ、プラン(中国チベット自治区)、三男にザンスカールとラホール、スピティ。
1950年、インドのイギリス統治からの独立と同時に、このうちグゲ、プランが中国領に。ラダック、ザンスカール、ラホール、スピティが、インド領土に編入された。
その後の文化大革命で、中国領となったチベットでは、ラマ教に対する徹底的な粛正が行われる。これにより、仏像、ゴンパ等の文化遺産は、大半が地上から抹消されてしまった。
その結果、インド領であるラダック、ザンスカール、ラホール、スピティだけに、これらが奇跡的に残ったのである。山と渓谷にならび、スピティのみどころの一つである。
ご存じの通り、インドとパキスタンとの間で、2001年以来、微妙な状態が続いている。ザンスカールの属するジャンムー&カシミール州は、パキスタンとの停戦調停ラインに囲まれ、東には、ちょうど日本の北方領土のような、アクサイチン--インドが自国の領土と主張しているものの、中国の占領下にある--がある。
ヒマチャル・プラデッシュ州も、そこまでシビアではないにしろ、中国、パキスタンに取り囲まれ、情勢が気になる地域だ。
古くから避暑地として愛され、「地上の楽園」とたたえられるエリアだけに、パイの奪い合いになった時期もあり(セブン・イヤーズ・イン・チベット参照)、今も、インドにとっては、重要な軍事拠点である。スピティの山奥にここまで道路網が張り巡らされたのも、軍事利用と、言葉は悪いが、住民を中国に籠絡されないようにする、インド政府による福利厚生的な意味合いを孕んでのことだ。ちなみにそのせいで、税金なども安い。
以上の予備知識から、要するに、利益を目論む海千山千の連中がいっぱい隠れているんじゃないかな、という想像が拭いきれなかった。
不安は無いことは無かったが、結局、外務省の「海外安全情報」などを参考に、行っても大丈夫と判断する。地域ごとの「危険情報の発出情報」(上記から引用)は、2003年7月当時こんな状態で、寸止めされてる感じである。
マナリには、大麻を勧めてくる輩がちょくちょく居る。駄菓子屋でジュース買ってくつろいでると、おっちゃんが、「一発どうよ?」とか声をかけてくるのだ。
マナリが、ヒンドゥ教の聖地としての側面を持っていることは既に述べたが、大麻は、ヒンドゥ教でもっとも崇められている宇宙創造と破壊の神・シヴァの大好物という事になっていて、神聖な物として啓蒙されている。「大麻は、心に幽玄の理想郷をもたらす神からの贈り物だ」と力説して憚らない僧侶連中も居たから、巻き込まれないよう気をつけてね。
ヒンディー語で「チャラス」とか「ガンジャ」という単語が出たら逃げよう。
マナリ~スピティの山間部では、至って平和という印象以外、ほとんど受けない。観光客ズレしてないせいだろう。しつこく言い寄ってくる物売りやタクシードライバーも少なく、一人歩きしていても、大きく緊張を強いられる事がない。海外旅行にしては拍子抜けするくらい、買い物もおちついてできる。
マナリでは1999年7月、若者同士の喧嘩が暴動に発展し、ショッピングセンターが放火されたりしたこともあったがそうだが、とてもそんな地獄絵図があったように今は見えず、こんな無垢な国がまだ残っているのだ、と感激するだろう。もっとも最近は、睡眠薬強盗の被害が報告されているそうだが…
私は今回がインド初体験で、かつ入国時、ニューデリーを素通りしたものだから、スピティの治安が、インドのデファクトスタンダードと思いこんでしまった。
もちろん、帰国前日のニューデリーには驚愕した。海外旅行のガイドブックに載ってる「トラブル集」と、ほぼ同様の荒れっぷりである。
ホテルを出て10秒もたたないうちに、道ばたにたむろするオートリクシャ(auto rickshaw)が寄ってくる。腰は低く営業スマイルを絶やさないが、獲物を狙う三白眼は隠せない。5Rsで、メインバザールまで乗せてってやるとしきりに誘ってくる。山間部のマナリでさえ、リクシャは最低30Rsからなのに、である。乗ってしまえば、コミッションのもらえるホテルか、呼んでも誰も助けてくれない場所に拉致る腹だろう。
歩くからいいよと断るが、「待ってくれ、頼む。1分だけ聞いてくれ」と食い下がってくる。「今日は暑いし、歩くなんて大変だ。ついでに観光案内もするよ。デリーは初めてか? 友人に自慢できるとっておきの店を紹介するぞ」とまくし立ててくる。普通に胡散臭い。
私「あんたの言ってる事は信用できないよ。もっと金持ってそうな客探しなよ」
男「なに言ってる。損得なんか関係ない。観光客は俺にとってみんな家族だ。俺たちは友達だ。そうだろう?」
と、いつの間にか親友にされてしまう。八重洲ブックセンターで立ち読みした「危ないインド」に載っていたとおりであった。
初対面の人間を友達呼ばわりする発言に信憑性など無く、「友達」→「カモ」と全文置換する必要がある。無視して道の反対側に渡って逃げた。ニューデリーの幹線道路にはだいたい中央分離帯があるので、車で道の反対側まで追っかけてくるのは難しいのである。これで簡単に逃げられる。
しかし対岸にも新手がいる。次は2台襲ってきた。ニッポンジン。メインバザールか。リクシャどうだ? 5Rsでいいぞ、と、詐欺の価格協定らしい額がふたたび示される。買い物の後は知り合いの店で昼飯をおごってやるだとか、乗車記念にこの指輪をやるよ等の押し売りをしてくるが、命がいくつあっても足りない筈なので、聞こえないフリして歩く。彼らも、機関銃のように喋りつつ、こっちの歩く速さに合わせてついてくる。
実際つきまとわれたのは100m位だろうが、気分的には1km位に感じられる。見た目はけっこう屈強な連中で怖いのだ。やれ話を聞いてくれ、やれメインバザールはスリやひったくりが多いから徒歩は危険だ、乗ってけ、とくる。ここだけは本当であろう。
たまにどこかの親切な兄ちゃんが、これらのリクシャを追い払ってくれる。「やめろお前ら。迷惑がってるじゃないか。さっさと仕事に戻れ」と頼もしい。
そして、「さあ、邪魔なやつらはいなくなったよ。これで観光に専念できるだろ? でさ、その角を曲がった所に俺の知ってる土産物屋があるんだけど、安くて良い店なんだ。ちょっと寄ってってよ。」
マッチポンプに辟易し凄んでみるが、「なぜ買い物をしない? 思い出を作りたいと思わないのか? インテリアもカシミーナ(カシミール産のショールとかのこと)も、日本じゃ手に入らないぞ」と、下手糞な半泣きで迫ってくる。手がつけられない。
俺の人生を決めるのは俺で、あんたじゃない、と真顔で言ったら舌打ちして去っていったが、始終こんな感じで、歩いている時間より止まっている時間の方が確実に長くなる。
財布を持っているのが恐ろしくなり、急いでホテルに戻る。すべての金目の物を、エアコンのダクトの中に隠した。そして、5Rs硬貨1枚だけ持って出直す。
さっき、5RsでOKとしつこく言い寄ってきたリクシャを見つけたので、「今度は5Rsだけ持ってきた。財布は置いてきた。さっきは悪かったな。乗せてくれないか」と声をかける。全部のポケットをひっくり返して中を見せてやった。彼は、フンという顔でたちまち去っていった。こんな二枚舌の連中を、決して信用してはいけない。
彼らは、昼飯代にも満たない額を観光客と攻防し、その少ない収入からリクシャの借り賃(300Rs/日くらい)を日々親方に支払い、実労12時間の激務(一台のリクシャを二交代制で使うことが多い)を休みなくこなし、肺を排気ガスで真っ黒にしながら家族を支えている訳である。涙ながらに語ってくれた。乗ってやらなかった割に雑談はしてる私。
上記のようなつきまといを回避するには、進行方向右側の歩道を歩くとよい。インドでは、車は左側通行なので、リクシャは、左側の歩道を歩いている客しか追っかけられないのだ。中央分離帯のある道路ならどこでも有効である。
しかし、徒歩でカモを探す奴らも多く、万全ではない。「どこへ観光に行くんだ?」と、休む間もなく声がかかる。どうつけ込まれるか分からなかったから言いたくなかったが、コンノートプレース以外に地名を暗記していなかったので、そう答えてしまう。無視しておけばよかった。
次に、だいたいの連中は、私に地図ないしガイドブックを見せろと要求してくる。たぶん、この地図はもう古いから俺が案内してやる、とか言う気だろう。しかし見せようと見せまいと、じゃあ俺が案内してやる。いまこの先で道路工事をやって、迂回路は複雑だよ。といったオファーが来る。
日曜に道路工事やってるのは不自然に思えたので、まず、案内してもらったら、いくら払ったら良いか交渉する。5Rsでいいと言う。ポケットからコインを出し前払いする。そして、「インドの道路工事技術に興味があるから、まずその工事現場に連れてってくれないか?」と要求する。
連中は急にしどろもどろになり、「遠いから徒歩じゃ行けない」「今日は工事は休みなんだ」と御託を並べはじめた。舌の根の乾かないにも程がある。
迂回するべき箇所だから、コンノートより近い筈だろう。作業は休みでも現場は見れるだろう。嘘八百いうな。と、目一杯逆襲する。そこでおもむろに地図を取り出し、工事現場を指してみせろ、と迫る。「すまん、分からない」と泣き顔で謝られた。
5Rsだまし取るつもりだったんだろう、って指摘したが、話をすり替えられる。実は子供が5人いて、次の借金返済日までに稼いでいかないと揃って飢え死にだから、助けてくれ。といった具合である。でも、いま嘘ついた奴の言うことなんか信用できないから金だけ返しなさい、と言って、5Rs取り戻す。
インドは貧富の差が激しい。ハングリー精神は日本人の比ではなく、無防備で立ちはだかるのは自殺行為だ。私は単に、たまたまラッキーな国に生まれたに過ぎず、彼らに対し高圧的になる権利は無いが、平等主義の墓標の下に、死体となって眠るのは御免である。
もちろんこんな極悪な連中はごく少数であって、真摯な対応をしてくださる方もいっぱいいる。しかし、そのような人は、滅多に向こうから話しかけてはこない。普通、用もないのに見知らぬ人に声はかけないはずだ。
従って、向こうから積極的に話しかけてくる場合、向こうがこっちに用がある、という事になり、それはすなわち営業・営利が目的であるに他ならない。くれぐれも気をつけて下さい。
インドには公用語が15個もある。
主に使用される公用語は、地域によって異なり、15個すべて操る人はインド人でも希である。例えばヒマチャル・プラデッシュ州ではHindi語とPahari語、マナリ周辺ではKullvi語がよく用いられる。また、スピティは、既にチベットの文化圏なので、インドの公用語ではなく、チベット語の一方言が使われている。(もちろん、私はどれも使えませんので、これらの情報が間違っていたら、ご教授いただけると幸いです。)
「日本の旅行者は、我々に対しよく『ナマステ』と挨拶するが、これは公用語の一つに過ぎず、通じるエリアは、実は少ない。」との事であった。知らなかった。有名な「チャイ」も、「テニル」という地域があったり、「tea」の方がむしろ通じやすかったりして、カルチャーショックがでかかった。
以上の状況から、英語が便利だ。インド政府的には準公用語の扱いであるが、インドどこでも共通して使えるので利便性は高い。"r"を巻き舌で発音するのがインド訛りだ。たとえば「水」は「ワタル」。「空港」は「エアルポルト」。「おはよう」は「グッド・モルニング」と聞こえる。
WIREDに書いてあった記事によると、英語圏向けの職業(パソコン会社のコールセンターとか)に就く人は、米国風の発音をもっとうまく真似られるように、舌の裏にビー玉を挟んで英語を話す練習を強要されたりするらしいが、日本人には逆に、LとRの違いが分かりやすいため、今のままの発音のほうが、すんなり聞き取れてしまったりする。
30歳以下の人、および観光業に従事している人(広義で、観光客をカモにしている奴らも含む)は、英語が堪能である。これは、インド政府が推し進める学校教育の成果との事で、スピティの山奥にも例外なく浸透している。
キャンプ場に遊びに来たシチリン(Sichiring)村のジプシー兄弟(日本のみなさんへのメッセージ/Nancy形式/0分17秒/305KB)も、TOEIC800点は堅い、英語が達者な学童であった。チョコレートとかを無邪気に無心しに来るのだ。6歳と3歳だそうだが、26年生きてる私よりずっと英語が堪能で、いっぱい聞けていっぱい喋れる絶好の機会だから、ぜひ友達になろう。
逆に、30代後半以上の人には、英語がまったく通じない場合が多い。特に、電話屋や日用雑貨店での買物に不便を感じるであろう。筆談もそれほど有効ではなく、近くを歩いている子供・若者を見つけ、通訳を依頼するのが確実であった。
喋れなくて困った語句は、私の語彙力では、数え上げるときりがない。
等、言えずに難儀した。「回虫」はroundworm
またはascarid
。「鼻クソ」はnasal mucus
か、俗語でsnot
であった。
「(長い旅行ですが、)どうぞよろしくお願いいたします」という表現も知らなくて後悔したが、帰ってから BookShelf で引いたら、「この表現は日本独特のあいさつで英語にはない」との事であった。知らなかった。
立ちションに寛大な国である。
恐らく、明確に他人の敷地だと分かる場所でなければ、任意の箇所で可能であろう。暑気払いに水をいっぱい飲むせいで、トイレはどうしても近くなるから、この国民性にずいぶん助けられた。
最後の方は慣れてしまい、「このような生理上欠くべからざる行為を、咎めるほうがむしろ人間として無粋なのかもしれない」とまで思えてきた。
それを裏付けるように、街では頻繁に、現場を目撃する。日本でいえば、携帯で話しながら歩いている人とすれ違うくらいの頻度だろうか。
「そんなの男の人だけでしょ」と、女性読者の方は思われるかもしれない。しかし、状況はほぼ同様である。男性と比べ、草むらのやや奥まった場所で足す、程度の差しかない。インド女性がよく着る、サリーや大きめのショールを使うと、それほど生々しい格好にならなくても足すことができるのだ。インドに到着したら、まず排便用にサリーを購入するのは、悪い投資ではない。(なお、Marcopolo Indiaは、ツアー客に女性がいる場合、トイレ用テントも別途設営するようにしているので安心です。)
スピティの山岳地帯では、パンクやオーバーヒートで立ち往生した車のせいで、1~2時間くらい、車が通れなくなることがある。するとトラックや路線バスも、当然しばらく停車するが、バスから降りた旅行者や地元の人が、三々五々赴くのが、立ちションと野グソである。
車道から脇の河原へと、ウンコに向かう乗客の列ができ、隣同士、井戸端会議のノリで世間話が始まる。そこに後ろ暗さは微塵もない。人目を気にしつつトイレに忍び、見つかればイジメに遭う日本の小学生が、不憫でならない。
あるときマナリの街中で、どうしても、野グソしている方の脇を通る必要が生じた。もちろん見たら悪いと思って、知らんぷりして通り過ぎようとしたが、驚くことに、向こうから話しかけてきたのである。「よぉ。インドの旅行はどうだい?」と、下半身が完全に露出しているにも関わらず、屈託のない笑顔であった。不自然さやぎこちなさが全く感じられなかった。
故に、あなたの性別に関係なく、小便および大便いずれも、よけいな気配りは必要ない。地球すべてをトイレにできる。うんこに振り回される日本での生活--うんこが心配で、かき氷も我慢し、どら焼きも食べられず、鞄にはティッシュ常備。ひとたび催したら血まなこでトイレを探し、見つからず、走って、汗だくで駆けずり回り、半泣きになって、挙げ句の果てに泣きながら客先でトイレ借りる羽目になったり、と、まるでうんこの運搬のために生きているような--が嘘のようだ。
とはいっても、ニューデリーのような大都市だとさすがに大便は憚られるし(小便は余裕)、貴重な女性の読者の方に気の毒なので、そのような場合、大きなホテルが便利である。
我々旅行者が見ず知らずのホテルにたむろっていても、別に不審ではない。咎められても、「全身全霊でウンコを我慢している所なんだ」と言えば、許してくれる。
ホテルのトイレは有料の所が多い。手を洗った後ペーパータオルを渡してくれる人がいて、1回1Rs渡す。高級ホテルはだいたいトイレットペーパー付きなので、水+左手で洗う方式に抵抗を感じる人でも安心である。
しかし、水+左手は、避けて通れない。
インドの便所には、便器の脇に、小さな水道の蛇口か、取っ手つきの洗面器が置かれている。尻洗い用の桶だ。ご存じの通り、これと左手で後始末をするのである。
最初は、いったいこれらをどのように使ったらよいか見当が付かなかった。右手は絶対に使えないものと思っていたので、どうやって、洗面器を操りつつ肛門を洗えばよいか分からなかったのである。
そこで、5メートルくらい向こうで同じようにしゃがみ込んでいたインド人を観察し、徐々にコツをつかむことができた。
これまで誤解していたが、実際に肛門に触る必要はない。尾底骨の真上に蛇口の先端が来るように尻を移動するか、左手で洗面器をその位置まで持ち上げ、あとは水を流すだけでよいのだ。仕上がりはウォッシュレットとそんなに変わらない。
はじめのうちは、ちゃんと汚れが落ちているか不安で、水洗の後、手持ちのトイレットペーパーで拭いたりしてみたが、何も残っていなかった。「トイレットペーパーは、ウォッシュレットと比べ、肛門の周りに残留する便の量が多い」と聞くので、むしろ予後は良好かもしれない。もっとも、別に尻で飯を食う訳でもないし、どうでもいい問題という気はする。
なお、紙が備え付けられていない水洗トイレで強引に手持ちの紙を流してしまうと、配管が、紙を流すように設計されていないため、容易に詰まってしまう。水洗でなくても、農耕用肥料への転用の妨げになったりするので捨てない方がいい。日本の習慣に固執しすぎるあまり、公共の福祉を害することの無きよう…
日本標準時より-3:30
(3時間30分遅れている)。夏時間はないが、たとえあったとしても、あんまり時間に厳格でないので、たぶん気にならないと思う。インドで、人が走っている姿を見たことがなかった。マターリが基本なのだ。
祝祭日は、2003年は次の通り設定されていた。ただしここに列挙したのは、「政府が定める」祝日のみで、これに加え各地域で、「フェスティバル」「ローカル休日」等が、この2倍程度設定されている。サラリーマンには天国だろう。
Republic Day | 1月26日 |
---|---|
Idu'z Zuha (Bakrid) | 2月12日 |
Muharram | 3月14日 |
Mahavir Jayanti | 4月15日 |
Good Friday | 4月18日 |
Milad-Un-Nabi or Id-E-Milad | 5月14日 |
Buddha Purnima | 5月16日 |
Independence Day | 8月15日 |
Mahatma Gandhi’s Birthday | 10月 2日 |
Depavali (Diwali) | 10月25日 |
Guru Nanak’s Birth Day | 11月 8日 |
Idu’I Fitr | 11月26日 |
Christmas Day | 12月25日 |
これらの休日と、加えて日曜日は、閉店する店が非常に多く、旅行者には不便である(土産物屋は開いてる事が多いけど、飯や水が困るのだ)。
インドというと暑いイメージがあり、実際ガイドブックでは「インドの旅行は、11月~3月が向いている」などと書かれているが、ヒマチャル・プラデッシュ州(Himachal Pradesh/HP)は、標高が高いこともあり、その陽気は、日本でいうと長野県~北海道に相当する。従ってハイシーズンは、避暑に適した夏場だ。
マナリ、ラホール、スピティは、ロータン峠、クンザン峠を境に気候が全く違っていて、それは雨量の嘉多にあらわれる。マナリは、モンスーンの影響で7、8月は雨が比較的多く、雨と煙と霧の街になる。情緒があってまた一興。反対にスピティは、雨はほとんど降らないが放射冷却が激しく、夜は、8月でも摂氏5度近くまで冷え込む。スリーシーズンシュラフと化繊のアンダーウェアにくるまって丁度良い寝心地となり、吐く息は白くなる。
しかし、春から夏にかけては、フェーン現象で、40℃を超える熱風が吹き付けることもある。
スピティやマナリの詳細な気象が載ってる資料を見つけられなかったので、ちょっと南のシムラ(Shimla, ヒマチャル・プラデッシュ州の州都)で勘弁して下さい。
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
平均最高気温(℃) | 2.0 | 9.0 | 14.0 | 19.0 | 23.0 | 22.0 | 22.0 | 22.0 | 20.0 | 18.0 | 15.0 | 10.0 |
平均最低気温(℃) | 2.0 | 2.0 | 6.0 | 10.0 | 14.0 | 16.0 | 15.0 | 15.0 | 13.0 | 12.0 | 7.0 | 4.0 |
平均降水量(mm) | 66.0 | 74.0 | 60.0 | 46.0 | 64.0 | 153.0 | 414.0 | 428.0 | 424.0 | 30.0 | 13.0 | 33.5 |
概要で恐縮ですが、マナリ(Manali)は↓くらい。
季節 | 夏 | 冬 |
---|---|---|
平均最高気温(℃) | 25.0 | 14.5 |
平均最低気温(℃) | 12.0 | 2.0 |
8月は雨期にあたり、マナリ付近はよく夕立に見舞われる。クンザン峠より北のスピティでは、雨期でも雨は少ないが、それでも砂嵐は弱まり、唯一、気軽に野山を散策できる時期となる。それを考慮し、ここらは6~9月がハイシーズンだ。
イギリスがインドを統治していた時代(1945年まで)は、この地域は、ブルジョワジーの避暑地となっていた。今でも、インドのお金持ちがこぞって避暑に来る。ロータン峠の南側では、インド人の結婚披露宴が盛んに執り行われている。雨が多い時期の方が、マナリ山腹の小川は水が澄み、濁流のガンジス川しか見たことのないインド南部の人たちはむしろ喜ぶのである。
しかし雨期に入ると停電が相次ぐというデメリットもあって、ビジネス目的の旅とかだと不便である。
冬は、マナリでスノボ・スキーが楽しめるようになる。
単位は、インドルピー(Rupee, Rs, INR
)を基本とし、補助単位にパイサ(Paisa, 100Paisa = 1Rs)がある。しかし、実質的にはルピーしか使用されない。日本の円と銭の関係に似ている。品物はすべてルピー単位である。電話は例外的に、パイサ単位で課金されるようになっているが、支払いは、パイサ部分を切り上げた額を請求される。(電話についてはこちらを参照)
レートは、2003年7月26日現在、100円 = 38.78Rs、100Rs = 257.16円だった。最新の値は、Yahoo! ファイナンスなどで調べられる。
100Rsと言われたら、「吉野家の牛丼並」「モスのチーズバーガー」「エビスビール1本」「東京から川崎」「広島から安芸中野」 あたりを引き合いに出すのが分かりやすい。
ホテルで新聞を読んでいたら、求人欄に、チェーンホテルの店長募集が掲載されていて、「月給・14,300Rs~18,300Rs」と書かれていた。貨幣価値は、日本の1/4~1/5程度と考えられる。
日用品・食料品の相場は、お茶(チャイ。激甘ミルクティー)が3~5Rs。飯が、旅行者用の高い所でなければ30~50Rsでデザートまで食える。オートリクシャーが3kmで30Rs。宿は1泊素泊まりで150Rs、といった所。日本の携帯への国際電話は、日本で公衆電話からかけるのとあまり変わらない。
街で時々見かけるショットバーは、白木屋くらいの予算で飲める。マナリにある高級そうなバー("KHYBER"という、マナリ唯一の飲み屋)では、瓶ビールが90Rs~100Rs、カクテル150Rs均一。ウィスキーは、シングル40Rs~320Rsまで幅広かった。
隣のパーティションで、インド人とイギリス人の学生グループが合コンをしており、もうこれ以上飲めないからオレンジジュースにしとくと言いはる女の子に、男が、スクリュードライバーもそんなに変わらないよ、としきりに勧めていたのが印象的であった。軽井沢と同様、避暑地にアバンチュールは付き物なのか。
物価は、日用雑貨屋に関しては、完全にFixed priceのようで、特に交渉の余地はない(だいたい値段が印字されている)。
日本とちょっと違うのは、手持ちのものを買い取ってくれる、という点だ。物を大事に使う文化が根付いているから、ボロボロにはき古した靴や、真っ黒の毛布も、価値あるものとして扱ってくれる。
もちろんすべての店がそうとは限らないが、ドラクエのように「うる」コマンド使用可能、と覚えておくといい。この場合、価格交渉の余地がある。
土産物屋やタクシー、オートリクシャ(auto rickshaw)は、他の国同様、旅行者には旅行者向けの値段をふっかけてくるため、交渉をしなければならない。
土産は、日本で温泉饅頭買うくらいのお金があれば、航空機の手荷物制限いっぱいに買い出せるだろう。一番いい買い物だったのは、タンギュッドの街で地元の子供達が売りに来たアンモナイトの化石(7Rsと行動食の残り)かな。
銀をふんだんに使った装飾品とかなら、たまに300Rs越えたり、ほんものの宝石なら700Rsに達することもある。カシミール産のショールとか、国を挙げての名産品だと極端に高い。日本円で3万円越がザラだ。それより安かったら、化繊が混じったパチもんに違いない。ショールの端っこをライターで焦がすと、化繊は溶けるので、すぐ見分けられる。良心的な店は、これを目の前で実行してくれるので、どんどん焼いてもらおう。
オートリクシャの値段は、メーターがついている車もあるが、不正に改造している可能性もあるので、交渉していった方が確実だ。田舎の町だと、客の行き先がだいたい決まっているので、交渉といっても、区間あたりの(暗黙の)固定料金を知っているか、知らないか、という話になる。
マナリなら、街の中心街からヴァシスト(Vashisht)村まで25~30Rsで切り出せばおおかた乗れる。
乗る前に同意したはずの額を、降りる段階になって「そんな少ない額を俺が言うわけないだろう。その5倍よこせ」とシラを切る運転手もいる。携帯電話のボイスレコード機能で迎え撃とう。これを使って100%勝てた。
そこまでやらなくても、メモ帳のはしっこに前もって区間・金額を記入してもらうだけでもだいぶ楽になる。動かぬ証拠にできる。
両替は、空港かホテルで行える。インディラガンジー国際空港(Indira Gandhi International Airport/DEL)は、荷物(機内チェックインぶん)が出てくるのにたいそう時間がかかるので、待ってる隙に両替する時間は充分にある。私設の両替屋は違法なのでご注意。
両替行為が違法なのはもとより、インドでは、一般人が外貨を所有すること自体、違法なのである。故に、たまたま持ってるドルや円をチップとして差し出すと、とても嫌な顔をされることとなる。後で知って大いに反省した。
チップ用に10Rs札があると便利だ。両替時に多めに替えてもらうと良いでしょう。500Rs札は、「そんな大きなお釣りはない」と断られる店が大半なので、登山ガイドさんへのチップ分くらいを確保し、全部100Rs札でもらった方が使いやすい。というか使えなくて困る。
両替時には、パスポートの提示を求められる。そして、両替証明(?)のようなレシートを手渡される。これは帰国時、ルピーを円に戻すとき必要となるので、無くすと困る。私のように。
さまざまなガイドブックに、「インドでは、破れたお札は使えない」と書かれているが、幸い、破れた札には出会わなかったため、本当に使えないか確認できなかった。
そのかわり、空港で両替したとき受け取った札束(100Rs札×100)は、ぶっといホチキスで二重に留められており、穴が貫通していた。自宅の鍵でこじあけられたが、もしこれが無かったら、爪がはがれるところであった。
これらの札は何事もなく使用できたので、穴くらいならOKと考えてよいだろう。
警察は100
。消防は101
。救急は102
。
インドには、日本のような公衆電話は無く、すべて有人の「電話屋」を使用することとなる(すごいホテルに泊まった場合は除く。これは後述)。これは、玄関口のインディラガンジー国際空港(Indira Gandhi International Airport/DEL)でも例外ではない。電話屋は、市街地なら、至る所で見つけられる。
電話屋の看板はインド国内共通で、「PCO」「STD」「ISD」という略称が書かれている。それぞれ次の機能を有する。
看板 | 機能 | フルスペル |
---|---|---|
PCO | 市内電話 | Public Call Office |
STD | 他の州への電話 | Subscriber Trunk Dialing |
ISD | 国際電話 | International Subscriber Dialing |
たいていの電話屋は、3つとも使用できる(つまり看板に3つとも書いてある)が、たまにISDが使えない店もあるので注意しよう。"STD"は、「性感染症(Sexually Transmitted Disease)」の略でもあるが、そのような要素はまったく含まれてないので(中国の床屋みたいに)安心して下さい。
店の中に更に電話ボックスがあって、音声面でのプライバシーは確保される。ボックスの中に、電話機と料金メーターが置かれている。
山岳地帯の電話屋は、数が少ないこともあって、いつも行列ができている。客ひとりあたり平均5分、女性は長電話なので7分はボックスを占領する。30分待ちは必至だが、舞浜のネズミに慣らされた人なら別に苦ではないだろう。隣の客と雑談でもして待とう。
停電や回線の故障で、まる一日くらい臨時休業してしまうこともある。連絡できる事を前提に旅行に来ないほうがいい。
受話器を取って、日本への国際電話なら、まず0081
とダイヤルする(国際電話のプレフィックス00
と、日本の国番号81
)。続けて、日本で普段使ってる番号(市外局番含む)の頭から0
を取り除いた値をダイヤルする。
つまり、日本の090-1234-5678
という番号にかける場合、0081 90 1234 5678
とプッシュする訳だ。(←の字間のスペースは、読みやすくするためつけたもの)
ダイヤルした番号は、料金表示の脇のLEDに羅列され、それは電話ボックスの外からも丸見えになってる店が多い。番号の漏洩は避けられない。暗証番号の類(留守録のパスワードとか)は入力しない方が安全だ。
原則として、世界中ほとんどの番号にかけられる。しかし、山奥に行くと、たまに、auやVodafoneの携帯にかけられないISDがあって、油断がならない。
通話中はリアルタイムで、メーターに、通話時間と料金が出る。
通話が終わったら、メーターに従い電話屋の店員に金を払う。受話器を置くと同時にレシートが印字される機種も多いので、だまされて多く支払わないように注意する必要がある。メーター・レシートともパイサ単位で表示されるが、通貨と物価で述べたとおり、パイサを切り上げて支払うこととなる。たとえば15.32
と値段が出ていたら、支払うのは16Rsになる。
カザとか、山奥にある電話は、衛星中継方式が多い。このような電話での会話は、相手に声が届くのに0.5秒くらいかかる。つまり、相手の返事が自分に届くまで(ターンアラウンドタイム)は1.0秒程度になる。その事情を互いに分かった上で喋らないと支離滅裂な会話になってしまう。電話をかける可能性のある人たちには、事前にその旨を言い含めておきましょう。
ちなみに、マナリ(Manali)までくると、衛星でなく電線経由だったので、遅延は無かった。
携帯電話の普及はめざましく、市場全体の、ここ3年の売上成長は、毎年、前年比30%を越えている。田舎の街角にも、AirTelの真新しい看板があっちこっちに貼り出されていた。ラスト1マイルの回線を引っ張ってこなくてもよいぶん、僻地ではむしろ普及が早く進む可能性がある。
スピティでも、あと3年くらいすれば携帯が使えるようになるのではないか、とNegiさんはおっしゃってた。そうなったら恐らく、auのモバイルエクスプレス等を日本でレンタルしていって、ヒマラヤの景色を眺めつつ会話できるようになるだろう。
ハイアットやメリディアンのような高級ホテルに泊まったら、部屋の電話から直に、国際電話をかけることもできる。
ただし、とてつもなく高い。ISDの10倍くらいふんだくられるだろう。説明書をよく読まないと料金が分からない仕組みになっているが、結論を言うと、日本にかけたら、1分でなく「1秒」で、4.5Rs(約12円)だ。
スリランカ・バングラディシュ パキスタン・ネパール | 2.25Rs/1秒 |
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それ以外の国 | 4.5Rs/1秒 |
1分で750円。留守録の自動応答メッセージ聞くだけで300円取られる計算だ(実際は、更に税金がかかる)。暴利と言わずして何であろう。オートリクシャ運転手も顔負けの価格設定である。
わざと嫌な相手にコレクトコールでかけて嫌がらせする位しか使い道が思い浮かばない。
ホテルに電話があっても安心せず、近くのISDを探し回る元気は残しておく必要がある。
インターネット屋を使う。スピティには無いが、マナリには、渋谷の漫画喫茶なみに分布している。値段は、40~60Rs/1hourが相場で、そんなに懐は痛まない。
だいたい Windows 2000 + IE 5.5以降で、日本語ページは読めるし、グローバルIMEがかなりの確率で入っており書き込みもできる。入る前に店員さんに聞いてみよう。(メリディアンのネットスペースは、ホテルの高級さと反比例して貧弱で、英語しか読み書きできなかった)
グローバルIMEが入っていなかったら、Microsoft のこのページから、[Microsoft Global IME 5.02 for Japanese - with Language Pack]
を選び、ダウンロード+インストールしよう。ただし、5.2MBもあり、インドのネット事情(後述)では、間違いなく2時間近くかかる。日本で、名刺サイズCD-Rとかに焼きこみ、お守り代わりに持ってくるのも手だ。Windows と同様の輸出管理規制を受けると思われるので、インドに持ち込むことに不都合はない(はず…。駄目なのは、アフガニスタン、キューバ、イラン、イラク、リビア、北朝鮮、スーダン、シリア。アメリカの輸出管理局 BXAを参照)。
キーボードは101か104だ。英語の記号の打ち方が、日本のパソコンで標準的に使われている106,109と異なっている。特に、:(コロン)、/(スラッシュ)、~(チルダ)といった記号の出し方が全然違っていて、慣れないと、URLやパスワードの入力で半泣きになる。特に位置が大きく違う記号は、以下の通りです。
URLの打ちにくさに加え、Yahoo! Japanは絶対にブックマークされていないから、普段よく行くページを探すのが一苦労だ。IMEと一緒に、普段使ってるブックマークもエクスポートして持ってくると時間の節約になります。
ネットへの接続速度は遅い。56Kbps アナログモデム接続(マナリはアクセスポイントから遠いので、実質20Kbpsくらいしか出てない)を、Windows 2000 の Internet Connection Sharing を使い、店全体で共有している場合が多い。画像の多いページやFlashは鬼門となる。
また、インドは停電が多く、がんばって書いた作業中のデータが突然失われる場合がある。これは、停電の多くなる雨季に顕著である。UPS を搭載した店など無い。ノートPCも高価なのでインド的には却下のようだ。IT関連製品の価格は、日本とほとんど変わらないのだ。ノートPCは、日本の自家用車くらいの感覚ではなかろうか。停電でも、料金の払い戻しは受けられない(だいたい、その旨が張り紙されている)。長文を書くなら、まずメモ帳を起動し、10秒に1回くらい"Ctrl + S"しながら作業するのがプロである。
これはクライアントに限った話でなく、サーバや、経路中のルーターとかもいささか不安定で、Yahoo! India に、20分くらいの間、まったくつながらなかった事があった。
セキュリティは甘い。Windows に Users グループでしかログオンさせない気の利いた店もあったが、だいたい Admin で入らせてるし、FD や CD-ROM ドライブは使い放題だし、NIS の類は入ってないし、Windows Updateは未実施だ。メリディアンのネットスペースでさえ、33個のCritical Updateが未実施だった。キーロガーやウィルスの温床と見てよいだろう。クレジットカード番号などは入力してはならない。それ以外のパスワードも、帰国後すみやかに変更したほうが精神衛生上いい。
店から出る前に、
インターネットに関しても、電話同様、いいホテルでは、高速線サービスを提供している所がある。1.5Mbps くらいのADSLで、手持ちのノートPCをつないで使う。きわめて高いのは電話同様だ。メリディアンの場合、500Rs/24hour、つまり約1,400円だ。たとえ1時間しか使わなかったとしても、500Rs取られてしまう。かつ、毎日正午を基準に課金開始されるので、複数日滞在する場合に誤って正午をまたがって接続してしまうとえらいことになる。
インドへの入国には、ビザ(査証)が必要である。
ビザは、「入国推薦状」といった意味合いを持つ書類で、訪問国の在外公館(日本にある大使館や領事館)が、その人の入国目的や身元を確認し、発行する。形式としては、パスポートの[査証(VISAS)]欄に、スタンプやシールを押す事が多い。(ただ、あくまで「推薦状」であり、本当に入国の可否を判断するのは、インドの空港にいる入国審査官)
インドのビザには、「ツーリストビザ」「学生ビザ」「トランジットビザ」「ビジネスビザ」があり、私のような旅行者は、「ツーリストビザ」を申請する。有効期間は3ヶ月となっているが、これは「入国から3ヶ月」ではなく、「発行から3ヶ月」である。つまり、3ヶ月MAXで滞在したい場合、出発ギリギリに発行してもらう必要がある。
取得は、代行してくれる旅行会社が多いが、金がかかるし(ワイルド・ナビさんの場合、5,000円)、大使館に行く良い機会なので、都心近辺に住んでいる or 勤務地があるなら、自分でやるのは悪い選択肢ではない。
ただし、インド大使館の営業時間は、とてつもなくお役所的で、不便極まりない。仕事が立て込んでいるとつらい。自分は、申請の時はフレックスでいけたけど、回収時は午後有休せざるを得ませんでした。
申し込み受付 | 月~金曜 9:30~11:00 ただし祝日は休み。 祝日は、日本のみならず、インドの祝祭日も加わり、なかなか利用者泣かせ。 毎日、1時間待ちはザラらしい(実際混んでた)ので、パチンコ屋のように、開店前に並んだ方がいい。 |
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受け取り | 2営業日後の16:00~16:30 |
しかし、 | Webページには「営業時間は、大使館に電話で問い合わせよ」と、書かれている。 流動的なんだろうか。 |
ツーリストビザ申し込みに必要なブツは、以下の通り。
手数料 | 1,200円 | |||||||||||||||||||||||||||
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写真 | 6ヶ月以内に撮影したものが2枚必要。 街のスピード写真で「ビザサイズ」(約5×5cm)となっているやつで OK。 | |||||||||||||||||||||||||||
パスポート | 6ヶ月以上、有効期間が残っていないと駄目だった気がする。 ビザ発行までの間(2日間)、パスポートは大使館側に預けることとなる(預かり証をもらえる)ので、その間、パスポートを使用した行動が制限される。注意しよう。 | |||||||||||||||||||||||||||
その他 | 必要書類を数枚記入する。これは大使館に備え付けがある。記入する内容は、以下の通りであった。 夫と父親の名前は要求するが、妻と母親の名前を要求しない点が、のちのち訴えられないか心配である。
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次の保険に加入した。登山活動(危険行為)中の事故でも保障される、心強いやつである。保険のしおりに、右のような「症例の英訳」が載っていて、ちょっと心強かった。
保険料 | 14,920円 | ||||||||||||||||
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保険期間 | 22日間まで | ||||||||||||||||
保障内容 |
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保険会社 | AIU 保険 http://www.aiu.co.jp/ |
この保険に限らず、「死亡」に関しては、遺体/遺骨が発見され、警察が死亡を確認するまで、保険金は支払われない。
私の先輩の体験(山岳遭難の捜索)では、警察による死亡確認があったにも関わらず、保険会社は、「遭難時の事故が直接の原因ではないのではないか」と、支払いを渋ったという事である。
従って、
という作業を地道に行ってくれる仲間や肉親がいないと、入っても意味がないかもしれない。
当然、代理店の連絡先は、事前に、友人・肉親に知らせるべきである。今回、保険証書は、成田空港でのチェックイン時、航空券と一緒に受け取ることとなっていたため、その場で、携帯から実家に情報を送った。保険証書に、日本語が通じる病院のリストが掲載されていたので、病気の時はここを頼れば良いのだろう。
飛行機のトラブルが原因で帰国が遅れる可能性もあるので、保険の期間は少し長めにしておくと安心だ。
上司に、「みんな有休残しまくって働いてるんだから、君も出勤しろよ」などと言われるが、「同調して有休を残すことが会社の方針、と受け取ってよろしいんですね?」と言い返すなどしてがんばって下さい。
- 年休は請求して使用者の承認を得なければ取得できないか』
労基法第39条第1項第2項の要件が充足されたときは、労働者は法律上当然に年休の権利を取得し、使用者はこれを与える義務を負う。労働者の請求をまってはじめて生ずるものではない。3項の「請求」は休暇の時季にのみかかる文言。
すなわち、(いつ-休暇を-とるかの意味にほかならない。)
労働者が休暇の始期と終期を特定して時季指定(=請求)したときは、使用者が適法な時季変更権を行使しないかぎり、年休が成立し当該労働日における就労義務が消滅するものと解するのが相当である。年休の成立要件として、労働者による「休暇の請求」や、これに対する使用者の「承認」の観念を容れる余地はないものといわなければならない。(昭和48年3月2日・最高裁第二小法廷判決)
- 年休の利用目的を説明しなければならないか
年次休暇の利用目的は労基法の関知しないところであり、休暇をどのように利用するかは、使用者の干渉を許さない労働者の自由である、とするのが法の趣旨である(昭和48年3月2日・最高裁第二小法廷判決)
労働基準監督署(東京中央)の電話番号は、03-3511-2161
だ。
仕事はあくまで、稼ぐ手段である。目標達成の資金を稼ぐ場だ。その目標が達成できないのであれば働く意義はないし、それは、職場で窓際族になるより何倍もつらい。
好きなことへの没頭こそが人間の生活であり、それを否定して仕事を押しつけるのは罪悪である。そのような厚顔無恥な出勤の要求に従う道理は全くない。人間の条件を放棄することは、まさにエデンの園から追放されるに等しい屈辱と言っていい。
やりたいことを我慢して生きるなど、美徳でも何でもない。
家庭や会社に滅私奉公する姿勢には、それはそれで頭が下がる。が、一度しかない人生において、堪え忍ぶこと「だけ」を美徳とし、生きたいように生きる態度を放棄したとしたら、それは、職務どころか、人生の怠慢である。
「山と私とどっちが大事なの!?」などと、あなたの大事な趣味を人質に取る伴侶は、そもそも伴侶に向いていない。共感は無理としても、せめて理解のある人を、別に見つけたほうがいいです。(経験者語る)