古来、炭焼きを生業とした山村集落。昭和30年代、石灰鉱山の社宅が造成され、最盛期は数十の家庭が暮らしていた。
その後、鉱山の衰退に伴い住民は離散。現在は、95歳のお爺さんが一人だけ暮らしている。つまり、たたずまいは廃村であるものの、れっきとした住宅街である。
我々が行った当日、某ゲームソフトメーカーが取材に来ていた。「廃村が登場するゲームを今度作るんです。これはいい素材が撮れそうです!」と、彼らはやる気満々だったが、失礼なことおびただしい。
村は、山肌に貼り付くように軒を並べている。斜度20度はあろうか。家々を結ぶ往来は、ほぼすべてが坂道か、階段である。
村の歩道網は、おおざっぱに言うと、2本の階段(垂直方向)と、それと直角に交わる無数の小径(水平方向)から成っている。
垂直方向の段数は、約150。京都駅の大階段をイメージしていただくと分かりやすい。もし、集落の過疎化がここまで進行していなければ、大階段駆け上がり大会で、突出した功績を挙げたことだろう。(4人1チームが出場条件)
鍛えられる反面、老後はつらそうだ。雨の日や、酔っぱらってる時の通行も、気を遣っただろう。
また女性はさぞ苦労したのではと偲ばれる。
家屋は半壊のものが多い。一般的に、玄関側には良質の柱を使っていることが多いので、まだそれほど、崩壊は進んでいないのである。道路側に限って言えば、集落の面影を旅人に偲ばせるには、充分な貫禄だ。
玄関同様、トイレの柱も頑丈なことが多い。従って、周りは全部崩壊したのに、トイレだけポツンと取り残され、丸見えになってしまうことも考えられる。
トイレは、いつもキレイに掃除しとかないと、廃屋になった時はずかしい思いをするのである。
屋根には、雑草・樹木の若芽が密生している。天然のアジサイ株が絡みついた屋根とかもあって、さながら良くできた日本庭園のたたずまい。
写真では、周りは鬱蒼とした森のように写っているが、木々は、まだそれほど太くなく、樹齢は20年未満であろう。集落から人々が離散するに従い、入れ替わりにやってきた木々である。
大木が増えるに従い、より激しく、家屋を崩壊させてゆくことだろう。落ち葉による腐食や、倒木の影響が大きくなるからだ。やがてすべてが枯れ葉の下に埋まってしまう前に、この独特の空間の雰囲気と匂いを、我々は味わっておかねばなるまい。
村の人口は、最盛期で100人あまり。理髪店や病院などの生活インフラも整備され、ひととおりの生活臭がうかがえる。
もっとも、家屋内の調度品は、ほとんど残っていない。社宅撤収時にきちんと運び出したか、心ない廃墟マニアが持ち去ったか、風化して土に還ったか、鹿が食べたか、である。(野生の鹿は多い)
残っているのは、鹿の食指をあまりそそらない、古びた新聞紙などである。しかし人間にとっては、得るものも依然多い。
たとえば文化放送は、「カナ子は大学生」「わたしはメイコ」「夢見るユメ子さん」と、朝っぱらから色物で責めている。おおっぴらにエロを語れなかった昭和30年代だが、当時のディレクターは、先見の明があったのだろう。廃墟で学ぶ、文化放送の新たな一面。
しかし、会社のバイオグラフィーを確認すると、上記3番組は、いずれも無かったことにされている。
集落の少しはずれに、他の3倍はあろうかという、立派なお屋敷がある。村で唯一の、二階建て家屋である。
この村は社宅だったと聞いているが、きっとこの家に、ボスキャラがお住まいだったに違いない。
その家の押し入れに残っていたカレンダー。土曜日がお休みの色になっていないのが伺える。今の時代に産まれてよかったよ。
建国記念日も、まだないが、これは1966年12月に制定されたんで、多分印刷が間に合わなかったんだろう。
モデルの女の子は、既に何児かの母または祖母となっているのだろうか。
こんなモヤモヤがカメラに写ってしまうと、「元気にご活躍されていれば良いのだが」と、祈りに到達せずにはいられない。
そんな村でエキサイティングにキャンプするのだ。テントを設営する場所は何箇所もあるし、水場もあるので、泊まりも快適。
月明かりが、成長する大樹のこずえに隠れてしまう前に、皆さんもここで、ムーンライト・キャンプを楽しまれてみてはいかがでしょう。
© 2004 Takafumi Kasai ()