2009年5月20日付記
廃墟をご所有の方から、連絡を頂きました。廃墟に生活感が残る理由として、「たいていの場合、捨てると決意して家を去るわけではなく、時々は帰ってくることが多い。その際は、親戚が集まって宴会・風呂・炊事なども行われ、そしてまた来ようと思って去る。次第に集まる者も減って廃墟と化すが、以上のことから生活感が残る」とご説明を頂きました。
併せて、廃墟化した家屋に対し、根拠もなく憶測のみで「夜逃げ」等のネガティブな論評をし、これを貶めることに対し、お叱りを頂きました。
私の至らない記述によって、過去の住人の方々の名誉を毀損し、大変申し訳ありませんでした。これを踏まえ、根拠のない憶測に基づく、悪意のある記述を削除させていただきました。何卒ご容赦下さい。
広島市の中心部から国道○号線を約一時間。そこから、車同士の行き違いも困難な山道をさらに約一時間つづら折れると、一つの集落が視界に入る。
中国山地の懐。道路網や電力網といったインフラの末端に、十棟ほどの民家が静かに眠っている。到着したのは午後一時。都市部ならまだ明るい時間帯だが、既に薄暗い。山々の狭間に位置しているため、日照時間が短いのだ。
最初に目についたのが左の建物。集落の中で飛び抜け大規模な屋敷だ。
「家が家柄を物語る」といった由緒あるたたずまいで、縁ある人々によって今でも定期的に手入れが施されているのか、縁側の植え込みや門構えは、荒れるでもなく比較的原型を保っている。
住居二棟と蔵一棟から成り、屋根の曲線や柱の組み方など、素人目にも凝った造りである。周囲は白い漆喰の壁でグルリ囲まれ、近寄りがたいオーラはまだまだ健在である。
門の扉はかたく閉ざされていた。右手には、「危険・立ち入りを禁ず」と警告が出されている。
こちら側から見る限りは、普通の建物に映るが、中は実は荒れまくっていて、立ち入ると怪我でもしかねないのだろうか。
散策にあたり気を付けなければならないのが、古釘と、割れたガラス片だ。敷地の随所に散乱している。長袖長ズボンはデフォルトとして、登山靴と軍手があれば心強い。
といったリスク要素を、常に頭の片隅に入れつつ、雰囲気を楽しもう。
中は一層薄暗く、一層冷え切った空気が充満していた。埃の粒子が、部屋全体に、重力と無関係に漂う。
暗さに目が慣れてくると、整然とした建物の外観とはうらはらに、雑然とした室内が見え始めた。
食器棚、ちゃぶ台、本箱などの家具が散乱し、新聞、雑誌、割れた食器などが床に溢れ出している。かつての居間であろうか。
目に入る物体の「古さ」は、以前両親の実家で目にしたやつと同じ程度-昭和30年代後半-と思われた。
うまい具合に古新聞が落ちていたので日付を確認すると、昭和38年5月、とあった。翌年開業予定の、新幹線に関する記事が一面に記載されていた。
居間の奥へ進むと、台所に出た。
土間になっており、中央にかまどと、ガスコンロが残されていた。火元がデュアル構成の上、この釜の大きさからして、相当な大所帯だったようである。(転がっていた箸の本数から、8~10人程度?)
床に包丁が突き刺さっていてドキリとしたが、割烹(かっぽう)着姿の年輩女性をここに立たせたら、違和感のない構図に違いない。
ナイフやフォークが見当たらなかったのは、まだ洋食がそれほど一般的でなかった事の現れだろうか。
台所の勝手口が、家の裏手に通じていた。
出てみて、家のこちら側だけ激しく崩壊しているのが分かった。山の斜面から雪崩落ちる倒木による損害と推察される。
風呂は檜づくり、もしくは漆喰塗りと想像していたが、意外にタイル張りだった。
「暖まる場所」という本来の役目から解放されて久しいだけあってか、逆に寒々しい。
シャンプーや石けんが、使いさしのまま残されている。
なぜ、こんなに生活臭が残ったままなのだろう。
母屋と並んで建つ蔵。施錠はされておらず、入り口の重い扉は、腰を入れて引くと音を立てて開いた。
中は真っ暗だった。ヘッドランプを点け足を踏み入れるが、先程の風呂で感じた違和感が増長・増幅され、すこぶる恐怖感がつのる。
全員で縦列を組んで歩く。
先頭と殿(しんがり)が一番怖いが、一番恐がりなやつがジャンケンに負けてそれを務めねばならなくなるのは、世の常である。
宝の山である。このような葛籠(つづら)が数十個、角をきちんと合わせた状態で整然と山積みされていた。
年代物の衣服、装飾品などが大切に仕舞われていると思われる。
しかし開ける勇気はなく、箱の外に放り出されている物体のみを観察しだす。
居間で見掛けた新聞雑誌よりも更に一世代古そうな書籍が、あちこちに積み上げられていた。
当時の家人にとっても、この蔵は、自分の知らない時代を代々封印してきた存在だったのだろうか。
右の写真に写っているのは、女学校の卒業アルバム。アルバムの下は、数学の教科書だ。内容は微積分であり、自分の知る限り、当時この範囲まで勉強していたとなると、この人は相当なインテリだったんだろうな。
母屋の二階。
手前の床が腐っている事から察しがつくように、階段も腐食が激しい。かなり弱っていた。踏み込んだ部分の板が、体重でしなるのが分かる位だ。一人ずつ、安全を確認して順に登る。階段の幅は狭く、とっさの時に逃げ出しにくそうで怖い。
二階は子供部屋になっていた。女の子の部屋だったらしく、西洋人形が何体か残されていた。愛玩具である人形も、年月を経て、自分より「年上」になってしまうと、どうも別な種類の雰囲気しか感じ取れなくなってしまう。
暗くならないうちにテントを張る。
集落の入り口付近の掘っ建て小屋の脇にキャンプサイトを定めた。
小川のせせらぎも何も聞こえてこない、まったく静かなたたずまいであった。
さすがにテントの中は、普段の合宿と変わりなく平和な光景だ。
「メニューはすき焼き。春菊たっぷり入り」と、食当が意気込むのも普段通り。
飯を食い終わるまではそうだったが、しかしその後は予定通り、怪談&肝試し大会となってしまった。
タイミング良く空は曇り日は落ち、なま暖かい風が吹き始め、お膳立ては着実に整っていく。
街灯もない山奥。深夜、明かりはもっぱらローソクだ。ヘッドランプは電池が限られているから、トイレに行く時などのためにとっておく。
通常合宿中は、ローソクの明かりを見ると癒されたり和んだりするものだが、今夜ばかりは、この炎の揺れる様と怪談が、頭の中で連想配列のように結びついてしまい、なかなか怖い。
月並みながら、「炎の向こうに人の顔が…」と誰かが呟き始めた。
無事、夜が明ける。
音楽に詳しい彼いわく。「この家の人、良い趣味してますね。たぶんこの時代、流行の最先端をいってたと思いますよ」
昨日蔵の中で見掛けた蓄音機で再生していたのだろうか。静かな山村だけに、気兼ねなく大音量で聴けただろうと考えると、下宿住まいの我々にしてみれば羨ましい。
今回、ここが本当に廃村指定を受けた集落なのかどうかは、事前に確認しておりません。また、たとえ廃村であったとしても、それぞれの家屋には、所有者の方がいらっしゃる筈であり、許可を得ずに進入することは、不法行為にあたります。
もし明るみに出れば、しかるべき処分を受けていたでしょう。
当時我々は、そんな事も考えず、文字通り人様の家に土足で上がり込むまねをしてしまった訳で、今では大いに反省しております。申し訳ありませんでした。