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リンシェ村の入口ですれ違ったキャラバン隊。
ザンスカールでは、依然、馬やロバが、主要な輸送手段です。
馬は、馬子 (Horseman) の年収とほぼ同じ値で取引され、かなりの高級品です。BMWの3か5シリーズに匹敵するでしょう。
荷の量にもよりますが、キャラバン隊は、馬5~15頭のユニットで行動します。頭数に応じた人数の Horseman が、馬の道中を世話をします。
夜は、牧草地の近くにキャンプを張れれば理想的です。
ただ、キャンプ地の選定は、クライアントである観光客の都合が優先されるので、牧草の生えていないキャンプ地に泊まる時は、一苦労です。
一日の、炎天下での行程を終えた後、さらに三時間くらいかけて、山向こうの牧草地に馬を誘導しなければならないのです。
馬を固定しておく適当な灌木が見つからなかったり、牧草の育ちが悪く、一箇所に固定したままでは充分に食べさせられない場合、一晩中、放牧しておかねばなりません。
当然、朝になったら行方不明、という事態が起こります。
ハヌパタ峠のキャンプ場で、我々も陥りました。こうなったら、Horseman が一人だけその場に残り、捜索に専念するしかありません。
途方もなく広いヒマラヤの山岳地帯では、見つかるまで何週間も、何ヶ月もかかる場合があります。その間、クライアントを待たせる訳にはいかないのです。
幸い我々の馬は、四時間後に発見できました。しかし時には山奥で、もう三ヶ月も、馬を探すためここに野宿しているという飼主と会うことがあります。
「彼は俺を待ってるに違いないから。仲間だよ、信じなきゃ」と、彼は笑って言うのでした。
村の畑が黄金色に輝くと、人々は忙しくなります。
一年間、家族と家畜が豊かに暮らしていけるだけの穀物を、この時期に収穫し、保管処理をし、畑や用水路の後始末をしなければならないからです。
一年の四分の三は風雪に閉ざされるザンスカールでは、生活の糧を得られる時期は限られています。子供達も学校を休み、家族総出で野良仕事に精を出します。もとより先生も畑に出ているので、欠席にはなりません。
畑から麦を運ぶのは、男性の仕事。軽ワゴン車なみの麦藁を、一気に背負います。
背丈も超す体積にも関わらず、汗一つかかず、笑顔で雑談しながら運ぶのに驚かされます。ちなみにここは標高4500m。彼の家まで、400mの標高差があったのですが…
刈り入れ後は、「風選」という、ラダックの伝統的な手法で脱穀します。二人一組。母親と娘の仕事です。穀物を、巨大な熊手ですくい上げ、殻だけ吹き飛ばします。
母「オーグスァー スキョゥト!」
娘「オーグスァー スキョゥト!」
風の女神に恵みを乞う句を、母と娘は、優雅なリズムにのせて歌います。つぎつぎと、円陣に麦が集まってゆきました。
母は、私がザンスカールで会った中で、いちばんの肝っ玉母さんです。
「ザンスカールにもっと投資してって宣伝しといてよ!」
ラダック語を通訳してくれてる息子さんも、苦笑いです。
数百年変わることのなかったザンスカールのライフサイクルは、トレッカーをはじめとする外部からの刺激によって、是非はともかく変革期を迎えています。
若者の街への流出によって、農作の労働力が不足し、高い運送料を払って、外から食糧を購入せねばならなくなっています。
その運送料を稼ぐため、出稼ぎの若者はますます増え、毎月のように、人材派遣会社の担当者が村にやってくる状況を、若者は絶好の就業の機会として笑顔で。村の長老たちは悪循環として暗い顔で見守っています。
娘は、レーの町で教師として働きたい、という夢を持っています。
仕事の合間、英語と片言のラダック語で雑談していると、「トレッカーは、ザンスカールを素晴らしいっていうけど、だったら三年くらい交代してほしい」と、何となく、日本の思春期の若者と同じ悩みを抱えています。
「日本に帰ったら、海の写真を送ってくれない? 先生はまだ難しいけど、近所の子供達に、海を教えてあげたくて」
海岸から数千km離れたこの村では、海は多くの人にとって、伝聞でのみ知る存在です。快諾し、帰国後、小笠原と道頓堀の写真を、「ダイビングスポット」として送りました。
日本の評判がどうなるか楽しみです。
車の入れる一番奥の村から、更に徒歩三日かかる山奥に、少年は両親、祖父母、兄の六人で暮らしています。
集落の世帯数は三つ。同世代の友達が住む隣村までは15kmの峠道を越さねばならず、まだ三歳の少年には遠すぎます。
テレビや電話もなく、絵本の入手さえ困難な山奥で、街道をゆくトレッカーだけが、彼が知ることのできる、外の世界のすべてです。
しかし、世界中からトレッカーが訪れる場所だけあって、多くの文化に触れるという点では、もう彼の目はけっこう肥えているのかもしれません。
日本の折り鶴が、彼の中でどのように解釈され、やがてヒマラヤの風景にどんな変化をもたらすか、20年後が楽しみです。
カメラに興味津々の兄・タムチョス君。
電線の架設や、発電機の燃料の搬入が難しいヒマラヤの山奥では、各家庭の電源は、小さなソーラーパネルがせいぜいで、電化製品は豆電球くらいです。
カメラの液晶画面は、子供たちにとって、タケコプター並にサプライズ。見とかな損やでと、まだ人見知りで目が点の弟くんを連れてきたタムチョス。弟くんは涙目で、逃げたくてたまらない顔ですが、来年ここに来たら、きっと好奇心で一杯の笑顔がふたつ、仲良く並んで見られることでしょう。
ラマユル村のキャンプサイトで、木陰に寝そべり行動食をかじっていると、子供達が集まってきます。
「ねえねえ、チョコちょうだい!」
裏表のない態度に、思わず差し出したくなりますが、その前に確認しなければならないことがあります。それは、「君は歯医者に通える場所に住んでるか?」 です。
ザンスカールの人々は、古来から、麦と家畜の乳だけを糧に暮らしてきました。甘いものが一切無く、虫歯と無縁の暮らしだったので、歯磨きの習慣も、最近ようやく浸透してきた所です。
交通の便も悪く、一旦虫歯にかかってしまったら悲惨です。治療は困難を極めます。若い頃かかった虫歯のせいで、何十年も、激痛に悩まされる人生を送っている人もいます。
甘いチョコは、彼にとって毒物となりうることを自覚し、トイレや草むらでこっそり食べるくらいの配慮を、トレッカーは実践しなければならないでしょう。
フォトクサール村の小学校。
ヒマラヤの村でも、1990年頃から、ようやく学校の建設が始まりました。
多くが複式学級で、クラス(=全校)あたり児童は20~30人。ただし麦の収穫期は、家の手伝いをしなければなりませんから、うんと減ります。
地理上、外部からの物資搬入が難しいザンスカールでは、食料は、自給自足が原則です。
働き手を雇うことも困難なため、幼いうちから農耕スキルを得ることが、勉強同様、命を維持し、将来を約束するうえで、必要不可欠な行為です。
グリーンランドのエスキモーにおける、狩猟と同じでしょうか。
1000年前の生活形態が、この村ではタイムカプセルのように維持されています。外の世界を教えてくれる学校は、子供たちにとって、知識の宝庫です。
トレッキングの休養日、村のあぜ道を歩いていると、子供たちが、校舎から顔を覗かせ「こっち来てー」と笑顔で手招きします。先生の許可もいただき、授業に上がりこませていただきます。
先生「日本がどんな国か、説明してあげてほしいのですが」
緑の森に囲まれていること、電話で遠くの人と話せること、生の魚が毎日食べられること… つたない英語で喋っていると、男の子の一人が元気よく質問してきました。
「ねえ、自動車に乗ったことある? 話を聞かせて!」
彼の夢は、車のエンジニアになること。そしてお金を稼ぎ、馬よりうんと速い車を買って、家族と、いろんなところへ出かけることです。
だから、苦手な算数のドリルを、毎日穴が開くほど繰り返し練習しています。
「私の情熱より、車なのよねぇ」と先生は嬉しそうに謙遜します。
でも彼はまだ、本物の自動車を見たことがありません。教科書に載っている数カットのイラストが、彼の知っている自動車のすべてです。
ドリルには、数式に混じって、想像で描いた車が、あっちこっち走り回っているのでした。
「パラパラアニメで自走する車」を、私は彼のドリルに伝授し、いつか彼の設計したザンスカール仕様車で、ヒマラヤ見物ができる日が来たらいいなと期待するのでした。
ピシュー村。標高4000m。
晩飯が一段落した村のキャンプサイトは、羊飼いの号令でふたたび賑わいはじめます。
水を得やすく、トレッカーによる食物連鎖が盛んなキャンプ場は、たいてい草原であり、家畜のエサ場を兼ねています。
糞も多量に転がっています。食物繊維と細胞壁を豊富に含む糞は、住民によって定期的に回収され、燃料として使用されています。薪となる灌木が少ないことに加え、積雪期でも常に採集できるから、貴重な資源です。
氷点下20度まで下がる冬の暖房用として欠かせない糞。
乾燥しているので、臭いはほとんどありません。が、そこは糞。
「仕事とはいえ、大変だねぇ」
「そう? 納豆に囲まれてる日本人のほうが大変そうだけど」
「インドの紅茶」と聞いて、真っ先に思い浮かぶのがチャイ。甘く煮出したミルクティー。
これはイギリスが宗主国の頃(1877~1947年)に持ち込まれた、比較的新しい文化です。日本でいうとスキヤキ並の歴史でしょうか。
一方、チベット文化を色濃く受け継いだザンスカールでは、「バター茶」が広く普及しています。チベット・モンゴル一帯で古来より愛飲され、日本でいうと、味噌汁レベル(縄文時代に発祥)の歴史を誇る嗜好品です。
その名の通りバター入りで、更に塩が入っているので、知らずに飲むと鼻から吹きます。
お茶うけは、「ツァンパ」と呼ばれる麦焦がし(砂糖無し)。口の中で混ぜると、スイカに塩をかけた時のような反作用で、ほのかに甘くなります。
安易に結論(甘み)が得られる洋菓子と一線を画す、硬派な嗜好品です。
「あーー、変な顔!」
初めて見る客観的な自分の顔に、うれしそうに困惑する妙齢の女性たち。
身だしなみを確認する手段は、トレッカーが残していった小さな手鏡だけ、という事も珍しくありません。貴重な情報です。
「あのさ、次は後ろ姿お願い!」と、手鏡では目視不能な部分のリクエストが矢継ぎ早に飛んでくるのでした。
ヒマラヤの岩場で、ときどき見かける貴重な花。
日本語では芥子(ケシ)、つまり麻薬の原料です。
未熟果に傷をつけると出てくる乳液から阿片が採取できます。
実際、これ目的で採取するインド人が後を絶たず、ブルーポピーは絶滅の危機に瀕しています。撮るなら今のうち。(取ったら逮捕)
ただし完熟した状態なら麻薬物質は消失しており、アンパンの上に乗って食卓に登場したりします。黒胡麻や黒酢が流行った日本で、いつか青ケシブームが訪れるかもしれません。
夕焼けが、美しく成長しています。
標高が高く、空気の薄い山では、空や星は、街の何倍も鮮やかに見えます。
ただ 6000m 以上になると、逆に星がまたたかなくなってくるので、4~5000m がベストでしょう。
仲良くなった村人に、チャン(地酒)をおすそわけしてもらって体を温めつつ、次は満月が出るのを待ちましょう。
最奥の村に着く頃には、高度順応も済み、平地と変わりなく体が動くようになっていると思います。
でも、生まれたときからこの気圧で暮らす村人たちには、到底かないません。
同じペースで盃を進めると危険です。村に骨を埋める羽目になりかねません。(明日にでも)
適当な間隔で、夕焼けのチェイサーを入れましょう。
ザンスカールに点在する村の多くは、急峻な山の斜面に、軒を連ねています。
富士山より高い標高(薄い空気)での上り下りは、初めてここを訪れるトレッカーにはひどくこたえる作業です。
地元の、80近い老婆にすら追い越される始末。過酷な気候、質素な食事、そして、しっかり鍛えられた体のせいか、人々の平均寿命は驚くほど高く、一説では80歳に近いと言われるほどです。
寿命を延ばすもうひとつの理由に、この土地には、「ストレス」がない、というのです。
20世紀の中頃、初めてここを訪れた外国の調査隊は、ザンスカールに、「ストレス」に相当する言葉はもちろん、その概念すら存在しなかったことに驚かされた、といいます。
確かに、あんまりちっこい事でストレス溜めてたら、ここまで坂道だらけの村に住めんよなあ。
日中、気温が40度に達するザンスカールでは、トレッキングは、早発ち、早着きが鉄則です。原則でなく鉄則。
標高5000mの薄い空気は、ちっとも紫外線を遮らず、カメラなど精密機器は壊れ、食料の賞味期限は短くなり、曲がり角にさしかかった肌の老化が進みます。
普段の登山では、美しさに背筋が震えるはずの朝の日射しは、別な意味で寒気を覚える存在に変わるのでした。
オアシスで昼寝する、家畜の山羊の子供。
仏教圏のザンスカールでは、多くの人々はベジタリアンです。牧畜は、毛と乳の採取、物資輸送といった、殺生を伴わない目的で行われています。
ただしこの思想を、他者に強制することはなく、村の雑貨屋には、肉の缶詰や、肉入りスープの素が並んでいます。肉が好物の人も、問題なく暮らしていけるでしょう。
生き物へのリスペクトを失わない限りにおいては、殺生への見解も同様です。山羊をじろじろ見ていたら、飼い主の兄ちゃんがやって来て、
「腹減った? 売るよ売るよー」
まず3,000ルピー(約9,000円)をオファー。
「脂身が絶品だよ! 旅で疲れてるだろ? 脂の乗った年頃ヤギさんが、3000ルピーで一生キミの自由に!」と、ナイフ片手に兄ちゃんは嬉しそう。
日本でフグ料理屋に行ける額ですが、もうかれこれ十日、肉を食べていなかったので無言でGo サイン。
内臓、特にハツのマサラ炒めは、筆舌に尽くしがたいうまさで、死ぬまでに、これを越える料理に巡り会えるかどうか。
標高4000mを越す過酷な岩砂漠で、人々はもう何百年も前から、独自の生活様式を崩すことなく暮らしています。
NHKスペシャルで放映されたその景色に釘付けになり、五感とカメラを駆使し、人生に焼き付けたい目的地となりました。
憧れた場所に居る自分を満喫。
空気が薄いから、騒ぐと高度障害で命に関わるのだけど、ここまで感激していれば我慢できる気がして、嬉し涙を溜めながら村の石段を跳び回る。
(撮影: 通りすがりの僧)
「よい旅を。よい人生を」
私の肩をポンと叩き、深く刻まれた皺を笑顔に変えると、彼はゴンパに消えてゆきました。
肩に残る感触を、いつまでも忘れずにいたいと思います。
ザンスカールの登山基地、そして、ラダック最大の都市・レー(Leh)。
天空の王国の虜となったトレッカーが、うじゃうじゃ歩いています。目抜き通りは半分以上、外国人でしょう。いろんな言語が聞こえてきます。
でも挨拶は、みな「ジュレー」とラダック語。
目抜き通りを、ゴンパのほうにちょっと抜けた路地裏。
家屋・道路・電柱・干してある洗濯物も含め、定規で測ったような直線は見当たらず、皆、手作り感満載の面と線でできています。
ダンカールゴンパ。建立は1500年前で、断崖絶壁の頂に、めり込むように建っています。
現存するチベット教の寺院は、ことごとく僻地に建っていますが、これは1949年に侵略してきた中国人民解放軍によって、簡単にたどり着けるゴンパから順に破壊されていった為です。
このへんの歴史的経緯の理解には、映画 Seven Years in Tibet が参考となります。
地元の子供らは、そんな過去どこ吹く風といった調子でサッカーしています。ボールは、観光客の捨てていったペットボトル。
どこの国でも、平成生まれは屈託がありません。
ピシュー村は、連日、世界中のトレッカーで賑わいを見せます。
キャラバンは、クライアントの趣向に合わせ料理のメニューを決めるので、夕食の時間帯、キャンプサイトは、チーズ、グレービーソース、カレー、醤油と、さまざまな国の匂いで溢れます。
食べ盛りの、村の少年達には拷問でしょう。
しかし、生活形態へのインパクトを最小限度に留めるため、貰い癖は厳禁です。心を鬼にしてテントの戸を閉めねばなりません。
トレッキングルートには、何kmかにひとつ、行商人のテントが設営されています。旅人向けの雑貨屋兼、喫茶店兼、情報センターです。
主人と犬のタッグですが、客が来ると、犬くんはテントの外に押しやられ、甘え顔で、呼んでもらえるのをじっと待ちます。
粘土で作った日干し煉瓦に石灰を塗った、鮮やかな白壁である。焦げ茶色の窓枠と、東向き(日の出の方向)の玄関も、ラダックやスピティの建造物に多く見られる特徴だ。屋根は、タマリクスの小枝で葺く。
煉瓦の耐用年数は約10年で、そのつど新しいやつに入れ替えるか、家ごと作り直すこともあるそうだ。
チベット教の文化圏では、村の入口や峠に、石を積み上げた塔が立てられている。ケルンに似た造形物で、「チョルテン」というモニュメントである。
旅人が、道中の無事を仏に祈願、または感謝する意味を込め、石や布きれを積み上げ、次第に造られたものだ。
往来の激しい場所だと、高さ3メートルを越すサイズに成長している場合もある。
ガイド氏によると、「チョルテン」は、"CHHROTEN"と綴ることも、"CHROTEN"と綴ることもあるとのこと。Googleだと、後者に矯正させられるが、現地のガイドブックでは前者だった。
綴りがまちまちなのは、これに限った話ではない。英語表記は、チベット語に対する当て字に過ぎないのだ。
「夜露死苦」や「怒羅衛悶」と同じと考えればよいだろう。
マネ村は、スピティ川の支流を挟んで村が二分されており、標高の低い側の集落を「下マネ」(Maneyomma)、標高の高い側の集落を「上マネ」(Manegonna)と呼ぶ。また、このスピティ川の支流は「マネ川」と呼ばれている。
昔は、もっと山腹まで車が入れたが、崖の崩落で道幅が狭くなっていて、現在は難しい。地元の方がせっせと補修工事の最中だったので、やがて復旧するはずだ。
補修中の道路には、かつて鉄橋だったところが一箇所あって、スタンドバイミーの要領で越える。眼下は岩々した渓谷でちょっと怖いが、列車が来ることは永久にないので安心だ。
マネ村からゆるやかな登りが続き、最後は小高い丘の上に出る。マニラン湖(Sapona Lake)全体を、良い感じで俯瞰できる。
家畜が、湖畔の沼地に、点のような大きさでちらばっている。ぼーっと湖水を眺めていると、忘れた頃に、鱒や鯉が、ぱちゃぱちゃ湖面を跳ぶ。
平べったい石を水面切りで投げたりしていると、結構遊べる。
しかし、ラダックの湖は、「神聖な場所」として法律上保護された場所が多いので、ほどほどにしとかないと逮捕されるかもしれない。魚も、捕まえて塩焼きにしたりはできないのだ。ちぇっ。
そういえば、インドは川だらけな割に、釣り人の姿は結局一回も見かけなかったな。
峠でよく見かける色とりどりの旗は「タルチョ」といい、チベット語で、お経が綴られている。まだ布教の済んでいない場所にも、風に乗せて経が届くようにと、考え出された品である。でも土産物屋にも売っている。
この地を、生涯かけ歩き続けたヒマラヤの人々でさえ、まだ見ぬ土地、お寺の無い土地が、この山のどこかにあると信じ、もっと遠くへ、と願いをこめ、旗を掲げ続けてきたのだ。
世界は、人が一生かかっても廻りきれない広さがあると、この旗は言っている。この旗が無くなるまで、新鮮味を享受できる場所に、自分ごときが事欠くことはないだろう。
次はどこへ行こうかね。
三年後。夜も更け、ムード高まる宿のリビング。暖炉にくべたタマリクスの、ぬくもりと香煙が心地よい。
窓の外はしんと降る雪。皆、ラム酒で暖を取りながら、明日の銀世界に思いを馳せる。 この写真だけ見れば、越後湯沢のペンションにスノボに来てるんですと言っても通じそうだ。
湯沢と大きく違う点:
レーの街からインダス川に沿って、スリナガル・ハイウェイを二時間ほど走ると、左岸から、一本の大きな支流が交わる箇所に出合う。ザンスカール川である。
厳冬期、堅く凍結した川面は、ザンスカールとラダックを結ぶ、もうひとつの "ハイウェイ" となる。
1月下旬~2月中旬だけ忽然と姿を現すこのトレイルは「チャダル」と呼ばれ、下界とを結ぶ峠道がすべて氷雪で途絶するザンスカールの人々に、かれこれ数百年、糧を繋ぐ重要な交易路として利用されてきた。
氷の回廊を通って、ザンスカールの首都パドゥムまで、片道五日のトレッキングだ。
「ガムブーツ」と呼ばれる特別な靴を身につけ、氷の回廊を、地元ガイド氏の先導で進む。夜は河岸に穿たれた洞窟で寝泊り。ピッケルやアイゼンは要らないが、シュラフや防寒具は、極地向け(氷点下30℃くらいまで対応の品)を揃えたい。
ベジタリアンフードが主体の地域なので、肉類は不足する。
ただ、やってみると分かるが、人間、肉の欠乏にはそこそこ耐えられるように出来ている。十数日も肉の供給を断たれると、こんなすっきりした生活もアリだなという境地に達する。
しかし一方で、果物と生野菜の欠乏には、実に辛い思いをさせられるだろう。寝ても醒めても、生野菜を口に入れたくて仕方がなくなってくる。
オレンジ色のシュラフ袋がミカンの皮に見えてきたり、誰かのザックに実はリンゴが隠してあるんじゃないかと猜疑心に囚われ検閲しそうになったり、理性を欠くことおびただしい。
極端にビタミンが足りなくなる氷の回廊。
体力に自信があれば、たらみどっさりフルーツとかを大量に持ち込み、すれ違うトレッキング客に売りさばいて一山当てよう。
氷点下25℃まで下がるラダックでも、インドの基本に漏れず牛が闊歩している。しかし南部地域の個体と較べ、毛足がとても長い。実は牛ではなく、ヤクとの雑種・ゾー (dzo / dzomo) という生き物だ。
ヒンズー教の教義下では、牛 (瘤牛) に準じた処遇にあり、同じくシヴァ神の乗り物、かつ母性と豊穣の象徴として、丁重な扱いを受けている。
牛やゾーを食べるのがタブーである一方、似たような生き物である水牛は、「別の動物である」と解釈されており、何の制約もなく狩り放題・食べ放題になっている。
インドで急にビーフカレーが食べたくなったら、水牛カレーでしのぐことができるのだ。
やがてこのゾー君も、解釈の拡大によってスキヤキにされてしまわないだろうか。
飛鳥時代 (西暦675年) の日本で、獣の肉を食べたくなった仏僧達によって、「ウサギは耳が羽みたいに長いから、鳥の一種。食べてOK」と、強引に定義が書き換えられた事からも分かるとおり、人の食欲に際限はないのである。
厳冬期の必需品・羊毛の供給元として、人々の生命線。牛以上に、上を下へも置かない丁重な扱いを受けている。おかげでわがままに育ってしまって、人間様の空間に公然と立ち入ってくる。
駄菓子屋に、なけなしの小遣いをはたいてお菓子を買いに来た子供から、お菓子の強奪を企む二匹。
古代アステカ文明のように、命を捧げるその日までは、上を下へも置かない丁重な扱いを受ける。
そしておもてなしの限りを尽くされたあとは、人々のために身をなげうつ。
肉はマトンとして人々の食卓に並ぶ。
屠殺と解体 (肉屋の軒先で行われる) の過程で出た彼らのなれの果ては、同じくインドの風物詩・野犬の餌にされる。ひとかけらも無駄にされない。
雪原にお宝を埋めた所。撮られているのに気付き、慌てて平静を装う。
肉は隠して鼻隠さず。
他の大人 (犬) が埋めたマトンを物色する子犬。さっそく一つ掘り当てて、嬉しそうにカリカリ食べていた。
でも埋めた当人に、後で八つ裂きにされたりしないだろうか。食料事情が深刻な極寒のヒマラヤでは、彼ら野良犬にとって、マトンの一滴は血の一滴。
下手したら自分自身が餌になるかもしれない毎日。
マトンを巡って兄弟喧嘩がはじまった。
喧嘩というより死闘だった。歯牙の応酬。どちらもみるみる、血みどろになってゆく。静かな谷に、幼い断末魔が響く。
やがて片方の動きが止まり、凄惨な姿に変わり果てた。とてもここに掲載できない。上空では、既にハゲタカのような猛禽類が旋回して窺っている。
ラダックでは、背中の紙一重向こうに、もう涅槃が広がっている。
高橋よしひろの漫画を地で行く場所である。きっと人語を操ったり、熊と闘ったりすることもあるのだろう。
牙剥き出しのこわい姿でデフォルメされてしまっている。
「仏教の世界観を描く仕事に携わることで、自分が、世界の一部に組み込まれたことを実感できる」
ゴンパの壁画を描く作業は、染料の調合だけで五年以上かかることもある。その道の絵師が、文字通りの生業として織り成す作品だ。
数百年の歳月をもってしても、その色彩に、荘厳さを与えこそすれ、朽ちさせることはできない。
見ているだけで、背筋に鳥肌が立つ。
輪廻転生を基調とする、御仏の様々な言い伝えと説話。
文化大革命の難を逃れた絵物語が、ヒマラヤの山奥で細々と語り継がれている。
スピトゥク・ゴンパの境内で、年に一度催される「伎楽 (ぎがく) 祭」。冬の数少ない娯楽であると同時に、五穀豊穣、無病息災を願う、敬虔な祈りの場でもある。
興奮のるつぼの観客席。だが騒ぐだけの村人はいない。皆、拍手の合間に手を合わせ目を瞑り、御仏に崇敬の意を払うことを忘れない。
舞浜のパレードより、子供の情操教育に有用かもしれない。
ちょっと素顔を激写。
しかしこの晩、何の前触れもなく40℃の熱が出た。不作法に罰が下った模様。
室内でさえ、夜は氷点下25℃に下がるこの地では、発熱は死の玄関口だ。蛋白質とビタミン不足で衰弱した体は、みるみる臨終に追いやられる。
尋常でない速度で体力の消耗が進み、あっさり体が動かなくなる。寝返りさえ辛くなって、心臓が疲れてくるのが分かるのだ。
そして朦朧とする意識の中で、昼に見た地獄の鬼が迫ってくる。
ラダックでは、背中の紙一重向こうに、もう涅槃が広がっている。