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奥多摩の倉沢集落。JR奥多摩駅から車で三十分 + 登山道を三十分の山奥にある。
昭和三十年代、石灰鉱山の社宅が造成されたが、現在は離散が進み、明治四十年生まれのお爺さんが一人だけ暮らしている(2003年時点)。つまり、まだ住宅街だ。
「廃村・廃校」カテゴリに含めてしまって恐縮です。
村の人口は、最盛期で百人あまり。理髪店や病院などもあって、ひととおりの生活感がうかがえる。
調度品は、ほとんど残っていない。社宅撤収時にきちんと片付けたか、心ない廃墟マニアが持ち去ったか、風化して土に還ったか、鹿が食べたかである。(野生の鹿は多い)
残っているのは、不味そうな古新聞や空き瓶だけだ。時代的にペットボトルは無い。
当時の文化放送が、朝っぱらから「カナ子は大学生」→「あたしはメイコ」→「日々の背信」→「夢見るユメ子さん」と色物攻めなことが分かる。廃墟で学ぶ、文化放送のリベラルな一面。
屋根には落ち葉が積もり、天然のアジサイが絡みつき、シシ神様の歩いた跡みたいになっている。
辺りは鬱蒼とした森だが、それほど太い木は無く、せいぜい樹齢20年だろう。集落の無人化と入れ替わりに生え始めた感じ。
森の成長に伴い、落葉の量や、倒木の威力が増すので、家屋の崩壊は加速する。
倉沢の景色は、明日にはもう、戻らない過去になる。そう思うと、五感を駆使して脳裏に刻まないと勿体ない気になってきて、耳垢を掃除してこなかったことを後悔した。
廃屋に残されたカレンダー。土曜が休みになってないのが伺える。週休二日時代に生まれてよかった。
建国記念日もまだないが、これは1966年12月に制定されたので、多分印刷が間に合わなかったんだろう。
和歌山県・潮岬から30km の所にあった廃校。状態は良く、現役稼働中に見えるほどだ。
南国の日射しがよく似合う。
校庭は、老人会のゲートボール会場として再利用されている。子供の歓声が途絶えても、興奮で賑わう場所であることは変わらない。
紀伊名産の和蜂蜜でつくったレモネードをご馳走になり、自分もゲートボールに加わる。
吉野杉が影をおとす校庭。訪れるのは二度目だが、三年前あったはずの講堂が、ぺしゃんこに潰れ、ここって廃材置き場だっけと悩む光景に変わっていた。
廃屋は、住む人が去ると、驚くほど早く崩壊する。枯れ葉に埋まり、土に還り、五年も経てばただの雑木林に戻ってしまう。
崩壊速度は、地形や気候によって個体差があるので、ベストな雰囲気かどうか、訪れるまで判らない。冷蔵庫でゼリー作る時のように、チェックしまくらないとダメである。サラリーマンにはなかなか難しい。
木造家屋の、生活臭と森の湿気が混じった香りは好きなのだけれど、その旬は、マツタケ並に短い。
まれに、キレイな廃校が残存する。超レアである。
廃屋は、外観が普通でも、見えない部分の柱が腐っていることが多い。床を踏み抜いたり、天井が落盤して死ぬ危険性もある。足を踏み入れるたびに、喉の奥に、濃い唾液がじわっとこみ上げてくる。
就職して数年たつのに、こんな子供じみたことで興奮する自分を、褒めてあげたい。
廃校の職員室に立て掛けられた、行事表。
最後の月の予定が残っている。今日と同じ三月だ。
自治体の沿革史を読むと、この学校が、最後の在校生を送り出した昭和五十年代、近隣地区に10あった他の小学校でも、統廃合が相次いだとのこと。
理由は、地域の基幹産業であった林業・木炭販売の衰退、それに伴う住民の離散である。
閉校記念式、卒業式予行練習、最後に卒業式。これより後は、黒板は空欄である。
もういくら待っても、次の予定が書き込まれることはない。
校庭の桜。つぼみが一生懸命、色を蓄えている。陽当たりに恵まれないので、開花は遅い。
「この桜も、子供の歓声を聴いていたのかな」と思いを馳せたいが、幹の太さ的に、最後の卒業式 (約三十年前) より樹齢は若い。
杉ばかりの山奥で、やっとひと花咲かせたと思ったら、誰も見てくれる人がいない。桜くん悲惨すぎである。
運動会や入学式といった年中行事もなくなった廃校に、人知れずひっそり桜が咲く。ささやかな年中行事だ。
よくご質問いただく点をまとめました。
ベルマークの主催団体の刊行する「へき地学校名簿」という書籍に、全国の僻地にある学校が列挙されております。これのバックナンバーと最新刊の差分(相違点)を列挙してみますと、廃校の跡地を特定するのに有用かと存じます。(廃校になった分は削除されるため)
ほか、全国へき地教育研究連盟(略称は、「全へき連」)の刊行物等も参考になります。 これらを利用し、廃校だけでなく、僻地の(運営中の)学校を訪ねるのも興味深いです。
南方新社刊・廃校に暮らす―森の中のスローライフ等が有用です。
大平宿 (おおだいらじゅく) という廃村。JR飯田駅から車で一時間だ。現存する廃村としては、日本最大級の規模を誇る。
古来、伊那~木曾をむすぶ街道の宿場町として栄えたが、道路網の整備に伴い過疎化が進み、昭和四十五年の集団移住により無人化。以後、廃村である。
杉並木の旧街道に沿って、二十ほどの家屋が建ち並ぶ。
家屋は、江戸末期~明治初期に建てられたものが多い。
町並みは、電柱と公衆電話 (使用可能) のおかげで、辛うじて昭和の面影をとどめているが、家の中は、もう日本昔ばなしと遜色ない。
市原悦子のナレーションで風呂を沸かしたくなる。
風呂のおかげで、精神衛生だけでなく、体の衛生も保っていられる。
大平宿は、南信州観光公社により、現在もメンテナンスされている。廃村にしておくのがもったいないくらい、床も柱もピカピカだ。
アウトドアの仁義・「来たときよりも美しく」を、いつも以上に厳粛に実践したい。
柚子を浮かべると、廃村っぽさが三割アップ。
予約すれば誰でも泊まれる。寝袋と自炊道具、食材は要持参。水は沢から汲める。
公衆電話もある。十円玉と百円玉しか使えないが、帰りのタクシーを飯田市内から呼べる。ドコモ携帯は通じない。 (2006年現在)
ごはんは、囲炉裏に薪をくべるところから始める。スローフードの真骨頂だ。
薪は、一把500円 (5kgくらい) で現地購入可(無人販売所方式)。うちわとライター・新聞紙は必需品なので決して忘れないこと。
火力調整は、囲炉裏につきっきりで、炭をつつき続けないといけない。服は煙で燻製状態。爪は真っ黒になる。お嫁にいけない。
雨の日は、薪がしけって着火に一苦労だ。煙ばかり出してるうちに、みるみる時間が過ぎ、腹は減り、同行者から冷たい視線が注がれる。
薪にこっそりラードを塗っておくと、よく燃える。アウトドア株を上げる必殺技である。ただしガソリンや灯油などの石油系は、燃え過ぎて危険なので厳禁。 (ちなみに2000年に、囲炉裏の不始末が原因で民家が一軒全焼している)
火が安定したら、まずお茶でも沸かして、スローフード開始しましょう。
スローフードを徹底し、原料からご飯を作ると、ますます楽しい。
これは、薄力粉と塩だけを延ばしてつくる「ほうとう」。我がアウトドアチーム食料担当の秀作だ。すりこぎで2mm厚にのし、うどん状にして食べる。ごりごり。
スローフードの良いところは、料理における楽しい部分を、より長く楽しめる点である。
いい匂いと湯気に包まれて、空腹でごはんを待ちわびる時間は、普段の三十倍くらい堪能できるだろう。
もちろん、つらい部分も長くなるので、イバラの道が味わえる。
都会生活で傷ついたヒットポイントが50くらい回復する朝食。
こめかみを、文字どおり酷使して食べる。
訪れる人は多い。おそらく、日本一にぎやかな廃村だろう。
ごみ収集車は来ないので、出たゴミは持ち帰りが鉄則だ。しかし、心無い連中が残飯を捨てつづけた結果、野良猫、ネズミ類が、周囲に住みついている。
床におやつ放置すると、五分で消えてなくなるので、抱いて寝ましょう。
十二月中旬~三月は、林道が冠雪し、除雪も行われない。アプローチは、徒歩一日がかりになるだろう。そもそも積雪期は宿泊予約ができないので、雪の上にテントを張ることとなる。
それはそれで楽しいが、冬は、近所にあるもうひとつの村「上村下栗の里」もお勧めだ。「日本のチロル」と呼ばれる、ハウス名作劇場のような場所だ。こちらは通年営業。
問い合わせはいずれも、南信州観光公社へ。
瀬戸大橋のたもと、周囲2kmの小島である。
かつて人が住み、小学校も設置されていたが、ここ20年は無人だ。とはいえ、生活道、家屋、神社、お墓などがまだ生々しく残っており退屈はしない。というか、したくてもさせてくれない。
山と違い、迎えの船が来るまで逃げられない無人島。発狂ギリギリで好奇心が満たせるスポットを、はりきってレポートしたい。
タコ料理で有名な児島の町から、チャーター船で南東へ二十分。無人島にしては、交通の便は良い方だろう。チャーター料金は、一隻往復一万円が相場だが、交渉の余地もある。
帰りは、迎えの時刻を打ち合わせておくか、緊急なら携帯で来てもらう。ドコモは通じる。AU と SoftBank はわからない。
上陸して、まず印象深いのが、多量のゴミだ。
空き缶、ペットボトル、傘の骨、クーラーボックス、ビーチボール、配水管、ポリタンク、自転車。日本のゴミすべてを網羅しているかもしれない。
風化して無臭だが「瀬戸内海の、澄みきったビーチ」をあてこんで来ると、落胆する。新婚旅行とかで訪れる場合、ゴミの目立たない夜間に上陸するとよい。
西岸の樹林帯から、島の奥(東)へ道が延びている。かつての生活道だが、未舗装のうえ雑草に覆われ、たたずまいは完全に登山道だ。
100mほど進んだ右手の草むらに、テントを張れる。今夜はここに泊まる。
更に300mで、かつて民宿だった家屋が現れる。屋根や柱の傷みは激しい。割れている窓ガラスもあって危ないので、中には泊まらないほうがいい。ただ、庭にテントを張るのは快適な選択肢だ。どちらにしても、テントは必携の島である。
ちなみに水場も一切無いので、ペットボトルで多量に持ち込まねばならない(超重要)。
この島は、横溝正史の小説・「悪霊島」のモデルと言われている。
誰かをこの島に招待する場合、先に伝えておかないと「トラウマを植え付けやがって」と後々まで恨まれる。
とはいえ、こんなオブジェが目白押しである。
たとえ伝えなかったとしても、だいたいの人は、ああ、こいつハメやがったなと薄々勘づく。
小動物にも事欠かない。
キャンプで小動物と遭遇するのは普通だが、心霊責めで心が参っていると、トガゲがタタリ神に見えてくる。
全員ホームシックにかかり始め、「こんな所に連れてきやがって」と、幹事の全人格を否定し始める。逆ギレする余裕は残しておきたい。
無人島だから、誰もいるはずはないのに、静まり返ってはいない。海鳥のいななき、梢のこすれ合い、波の砕ける音が、いつもどよめいている。
この不協和音は、人間、それも幼い子供の声に良く似ており、実に不気味である。
時々、意味のある日本語に聞こえることがある。「来て」とか。「見たよ」とか。
夜に聞いてしまうと、トイレに行けない。
泥酔しか対策が思いつかない。
恐怖の一夜が明け、「光がこんなに有難いなんて」と、感謝する。
しかし、地元の某高校は、課外授業として、ここへ毎年キャンプに来ているとのこと。日本を背負って立つ若者が育つことだろう。地球のどこかで会えるのが楽しみだ。